Tales of a Wayside Inn 1863
シシリア人の話: カザルマッジョーレの修道士
ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー 作
1.
もう何世紀も昔の事だが、真夏の太陽が照りつける中、二人のフランシスコ修道会士が、クタクタに疲れた重い足取りで寺に帰ろうとしていた。その白亜の壁と塔は残雪のように山腹に輝いていた。
二人は埃まみれで、イバラに引き裂かれ、背中には清貧の印である物乞い袋を背負い、荷役のラバのように耐え忍んでいた。
2.
一方の修道士はアンソニーと言い、慎み深く静かな男で、頬は青白く痩せていた。彼は夜行や懺悔や断食や祈りに多くを費やした。彼の体は、内側で真っ赤に燃え盛る木炭に積もった灰のように白かった。
彼の一日の多くは、修道士たる者の精神が神の声に耳を傾けその声に従うものであった。
3.
もう一方はティモシーと言い、大きな図体で粗暴であった。彼は赤ら顔で、巨漢の修道士であった。尻が大きく、肩幅もそれに見合ってガッシリとしていた。それ故しばしば彼は、修道院の恥になるような騒音を薄暗い食堂に轟かせた。
だが、ミサの教書で人の注目を集めることはまずなかった。というのも彼は読誦による修練を全くしなかったからである。
4.
さて、二人が森を抜け出ると、喜びと驚きの光景があった。一匹の驢馬が木にしっかりと繋がれ、退屈そうに、大きく澄んだ目を瞬きさせていたのだ。
驢馬の持ち主は、近所に住む農夫のギルバートであるが、彼は柴を探しに深い森へと分け入り、驢馬が熟考できるようにと日陰に残して行ったのだ。
5.
ティモシーはその忍耐強い動物を見つけるやいなやこう言った、「神のご加護に感謝します。神は我等のために、この者をお遣わし下された。では、神に造られしこの生きものの背中に、我々の荷を載せることにしよう」
それを済ますと、彼は慌てることもなく、驢馬の頭と首から端綱を解き、それを自身に装着した。そして驢馬がそうであったように、木にしっかりと繋がれて立った。
6.
そして快活に笑い声を上げると、アンソニーに向かって叫んだ。
「さあ行くんだ。君の錫杖で驢馬を追い立てるんだ。そして修道院に着いたら、私は疲れと病気で熱が出たので、一晩農夫の所に泊めて貰うことにしたと言ってくれ。そうして、お布施の食料で頭陀袋が重くなったので、それを運ぶのに農夫が驢馬を貸してくれたと言うんだ」
7.
アンソニーは、ティモシーの悪戯であるのが分かったが、彼がつむじ曲がりの変わり者であるのは知っていたので、敢えて諭そうとはせず、黙って彼の言葉に従った。
そして、驢馬の尻を錫杖で打ちつけ、丘や林を越え頭陀袋に飼葉も添えて、修道院の門へと追い立てた。哀れなティモシーのことは、彼の運命に委ねることにした。
8.
ギルバートは、焚き木にする柴を背負って、森から勢いよく出して来て、肝とつぶして立ち止まった。彼が驢馬を繋いで置いた場所に巨漢の修道士が立っていたのだ。
ギルバートは震えながら立ち尽くし、近づこうとはしなかった。そして、目を見開き、ポカンと口を開け、ハットして十字を斬った。
彼は迷信深く、これっぽっちも知性を持ち合わせていなかったので、それを地獄から来た悪魔だと思ったのだ。彼は狼狽えて口も聞けずに凝視したまま、背負っていた柴を地面に落とした。
するとティモシーが言った。「驚くには及ばない。御前がここに繋いでおいた驢馬は、憐れなフランシスコ修道会の修道士であったということだ。しかも端綱に繋がれ慎み深く立っていたので、飢え死にするほど弱っているのだ。私を解き放ち、カザルマッジョーレの修道士ティモシーの哀れな話しを聞いてくれ」
9.
「私は罪深い者なのだ。御前は、私が聖なる頭巾とケープを着ているのが分かるだろ。御前は驢馬を所有していたのではないのだ。御前は、七つの大罪の大食の罪により、姿を変えられたこの私を所有していたのだ。驢馬として鞭打たれ使役され、草を食べるという贖罪以外その罪を逃れる術がなかったのだ」
10.
「私の受けた屈辱を思え。
私の辿った悲惨な人生、
私が余儀なくされた、労苦と鞭打ち、
風の吹き抜ける納屋での惨め寝起き
渋々与えられる僅かばかりの食べ物
湿ってカビ臭い藁の寝床、これらがどんなものだったかを考えてみよ。
私は、自分の罪の贖罪のためこれを成し遂げたのだ。
そして、人として修道士としての人生が再び始まったのだ」
11.
人の善いギルバートは、これらの話を聞いて、良心の呵責に苛まれ、修道士の前に崩れ落ち跪いた。そして、寛大な慈悲をお恵み下さいと懇願した。
心正しい修道士は、今はすっかり心安らかになり、満面の笑みを湛えて彼の罪を赦した。そして時間も遅くなり、彼には休息が必要だったので、その夜、農夫の客となることを断ることもできなかった。
12.
オリーブの茂った丘に、白亜の壁に模様の描かれたコテージが建っていた。近くの蜂の巣からは、遠くから聞える滝音のような、羽音が響いていた。
隠遁生活を愛する人が、騒音や喧騒から離れ、満ち足りて暮らしている場所であった。それは、収穫物を目安にゆっくりと移り行く一年をはかる、クラウディア作の「The Old Man of Verona」のようであった。
13.
コテージへとやってくると、彼の子供たち、そして肉付きのよい女将さんのシシリー夫人がおり、そして長年の畑仕事で腰の曲がった父親が長椅子に座って、ミラノとフランスの古い戦争での出来事を取り留めもなく繰り返し語っていた。
家族の者皆、フランシスコ修道士を、敬虔な尊敬と畏敬の念をもって迎え入れた。
14.
ギルバートは何が起こったのかを皆に話した。どんな疑問も、疑いも、推測も挟むこともなく、この心正しいブラザー・ティモシーは、自分たちが飼っていた驢馬であったのだと言ったのだ。
彼等の瞳の驚きの色が見えるだろうか?
彼等が「おお! 神よ!」と叫び声を上るのが聞こえただろうか?
彼等の悲嘆と困惑がどれほどのものであったか!
詰まる所、全員その話を信じ、そしてこの苦しめられた男の中に、聖者を見たのだ。
15.
長きに渡る厳格な断食が明け、すぐさま、修道士の欲求を満たすため、ありったけの食事が用意された。
女将さんは台所の竈の火を勇んでかき回し、自身の願いとして、庭で飼っている最上で最後の二羽の鶏がつぶさた。
サラダボールにはサラダが、そして、すべてに報いるために、高級なフランスワインが供された。
16.
ブラザー・ティモシーがどんなに空腹に見えたか、何度言っても信じられないだろう。
彼の食べる姿を見るほど愉快なものはなかった。
彼の赤い髭から白い歯がこぼれ、ワインと肉で、彼の顔は紅潮していた。
彼は邪な目を、キョロキョロさせ、嘲笑し、色目を送ったのだ!
主よ! 彼は、ビンテージワインに神が宿っているとでもいうように、赤い血のようなフランスワインを飲んだのだ。
彼はのべつ幕なし浮かれ話を話し続け、終わることを知らず、それどころかいよいよ増長して、常軌を逸したかのような、大きな笑い声を上げ、そして、羊毛のように生えている赤髭を揺すった。
そして、シシリー婦人に色目を送った。
とうとうギルバートは、お客に腹を立て、怒を表した。
17.
「正しき神父様」彼は言った「私たちは、禁欲というものが、どれほど必要であるかを容易に知ることができます。長い贖罪の後に、あなたは今夜罪を赦されました。しかしあなたは、誘惑に抗する力が弱いということを、明らかに示しました。そしてそれは、あなたが再び大罪に身を沈め、怖ろしい危険に陥ることを示しているのです」
18.
「明日の朝、太陽が昇ったら、修道院にお帰りなさい。さもないと、断食や神罰から逃れられません。あなたは、肉を食い馬鹿騒ぎをして、再び驢馬になるという大きな危険に突き進んでいるのです。神罰を望むならいざしらず、さもないと、あなたの皮膚は鞭でそがれることになるでしょう」
19.
修道士はこれを聞いて、色を失い、稲妻に打たれたように我に返った。そして、爪先から頭まで赤くなり、赤毛の頭の青白く禿た部分まで真っ赤に染まった。
老人は椅子で眠っていた。全員退席すると深く沈みこみ、どうしようもなくただただ眠った。
20.
彼等は夜が明ける間際まで眠った・・・オンドリが鳴き声を上げるその時まで。しかしオンドリは鳴かなかった。ご存知の通り、彼等はピンピカのオンドリを殺して、昨晩食べてしまったのだ。
修道士は、早起きして上機嫌だった。そして朝食を食べると、朝の祈祷の鐘が遠くから聞こえてきたかのように、急いで出立した。別れの挨拶はしたかどうか分からないくらいだった。
21.
牝牛の息のように、清々しい朝であった。ハーブの香と松の木が蒸散させる甘いバルサミコのような香が混じり合っていた。朝靄がこれから暑い日になることを予言していた。
アペニン山の上に太陽が昇り、その谷間に広がる霧は、鳥たちの歌声、人の声、鐘の音、牛の鳴き声などで満ち満ちていた。
22.
ブラザー・ティモシーにとって、全ての事柄は無意味なものでしかなかった。彼は景色を愛でることを知らない、そしてこの景色も例外ではない。彼のめくるめく雑念は、ここでも、望みのものを見つけなかった。
しかし、修道院の壁が視界に現れ、厨房の煙突から煙が立ち上り渦をまいて空気中に昇って行くのを見つけて、歩みを速めた。獣のように、少なくとも3マイル離れた厩舎の臭いを嗅ぎつけたのだ。
23.
修道院の門を入ると、彼はそこで、例の驢馬を認めた。驢馬は耳をくるくり回して立っていた。それは、あの森で見つけた時と同じように、そこに置いておかれているように思えた。
彼は修道院長に、この驢馬は、修道士たちの日々の仕事を軽減するために、金持ちで倹約家の男が、お布施として修道院に贈ったものであるということを伝えた。
24.
そこで修道院長は何日もの間、この重大問題を熟考した。彼は多方面から何度も検討し、憂いのない結論が導きだせるものと期待したのだが、口さのない世間のことを畏れて思い留まった。
もしこの手のお布施を受けたとしたら、「怠け者の修道士たちは、お布施袋を自分で担がずに、驢馬に運ばせているよ。」と言われることだろう。
この手の中傷を避け、世間の口に上らぬようにするために、この面倒な問題は取りやめにして、手早くこの驢馬を売って出費を抑え、いざという時のためのたくわえにすることにした。
こうして修道院長は驢馬を隣町の市場にやって、この厄介事から自由になった。
25.
ある人が言ったように、偶然の出来事というものは、他の人からは運命と呼ばれるものとなる。 ギルバートが、その市にやって来たのだ。そして驢馬の鳴き声を耳にした。彼はそこへ近づいて行って、そして彼はそれを見た。
彼は驢馬の耳元で囁いた。「ああ、なんということだ。神父様、私には分かるよ。暴食のせいで、再び驢馬にされてしまったんだね。私の忠告は皆無駄だったんだね。」
26.
驢馬は、耳に息を感じて、振り返ることが出来ずに頭を振った。それはあたかも、農夫の話が面白くないという風だった。これを見てギルバートはもっと大声ではっきりと言った。
「私はあなたの事をよく知ってるんだよ。しらばくれて駄目だよ。あなたの髪は赤毛で、フランシスコ会の修道士で、名前はティモシーって言うんだよ」
27.
驢馬は、秘密を暴かれたにもかかわらず、頑なで、再び頭を振った。そうこうしてると、二人の会話を聞きつけて大勢集まって来た。そしてギルバートが、真相を明らかにしようとすると、彼等は大声で囃し立てた。そして一日中、嘲笑と囃子歌で彼を愚弄し続けた。
「この驢馬が、修道士のティモシーと言うなら」彼等は叫んだ。「買って、やわらかい草でも食わせてやればいい。二度も驢馬に変えられたんだから、こいつのために、どれだけのことをしたってし過ぎるということはないだろうからな」
こう言われて、人の善いギルバートは彼を買うと、端綱を解いて、[慎みと心の安寧に向かうことについて語りながら]、山や沼地を越へ家へと案内した。
28.
子供たちは彼等がやってくるのを見ると、迎え出て喜びの余り大声を上げ、彼の首にぶら下がった。・・・それはギルバートの首ではなく驢馬の首だった。・・・そして彼の周りを踊り回った。
それから神の聖なる人を飾るために、緑の草で冠を編んだ。子供の感覚では、手綱や認証札が無ければ、灰色の修道服の修道士と驢馬とを区別するのは全く不可能だった。
29.
「ティモシーさんよ」子供たちが言った。「以前と同じ姿になって、戻ってきてくれたんだね。僕達は、あなたが死んだんじゃないと思ってね、それでもう二度と会えないんじゃないかと心配だったんだよ」
こう言うと、子供たちは彼の額の白い星にキスをした。それは、生まれつきの痣のようでもあり、徽章を帯ているよでもあった。そして、首や顔をなで、無邪気にたくさんのことを話した。
30.
それ以来彼は、「ティモシーさん」として知られ、常に贅沢な暮らしをさせてもらった。それは、彼が穀物や藁をたらふく食べて恩知らずとなり、手がつけられなくなるまで続いた。
ある日の事、哀れなギルバートは、自身を責めるように苦々しくこう言った。
「善良な親切が誤解された時は、少し鞭をくれてやるのがよいということだ」
31.
ここで、彼の悪徳の多くを語る必要はない。ただ、幼子や老人に対しても後ろ脚を振り上げる習慣があった。
また彼は端綱を壊して、狂ったよう走り出し、牧草地を越え野原を越え森を越えを草原を越えて逃げて行った。こんな悪さは朝飯前だった。一番ひどかったのは、夜中に小屋を逃げ出し、キャベツの苗床をめちゃくちゃにした事だった。
32.
こうして、ティモシーさんは再び労働と苦痛の昔の生活に戻った。そして以前よりもひどく鞭打たれることとなった。
安穏と抱擁の代わりに、雑多の仕事と痛みを伴う苦悩がやって来た。彼の苦役が増えるにつれて、食物は減って行った。遂には、彼の多くの苦しみを終わらせる死が最大の慰めとなった。
33.
彼の死は大きな悲しみとなった。彼は悔い改めることをほとんどしなかったのだ。シシリー夫人は悲嘆に暮れ、子供たちは泣き悲しんだ。老人は未だにフランス戦争の出来事を覚えていた。そしてギルバートは、ここへやって来てそして行ってしまった彼の多くの美徳を賛美してこう言った。
「神様、どうかティモシーさんをお赦し下さい。そして、大食の罪から私たちを遠ざけて下さいますように」
(日本語訳 Keigo Hayami)
2017年8月28日月曜日
2017年8月21日月曜日
世事百談 巻之三 欺て寃魂を散
世事百談 山崎美成 青雲堂英文蔵梓 天保十四年十二月(1844)
巻之三
欺て寃魂を散(あざむきてゑんこんをさんず)
人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれたとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて未来善悪
の因となれる如く狂気するものも金銀のことか色情か事にのぞ
み迫りて狂(きやう)を発する時の一念をのみいつも口ばしりゐるものなりある
人の主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云をさにあらず家業といへ
ども殺生の報はあることゝて庭なる露しげく[お]きたる樹(き)をゆりみよと
101
こたへけるまゝやがてその木(こ)の下(もと)に行て動しければその人におきたる
露かゝれりさてその人云やう怨みのかゝるもその如く云つけたる人よりは
大刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや諺にも盗(ぬすみ)する子は悪(にく)からで縄とり
こそうらめしといへるはなべての人情といふべしこれにつきて一話(はなし)あり何
某(なにがし)が家僕(かぼく)その主人に対し指(さし)たる罪なかりしがその僕(ぼく)を斬(きら)ざれば
人に対して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て主人その僕を手討にせん
とす僕憤り怨(うらみ)て云吾さしたる罪もなきに手討にせらる死後
に祟りをなして必取殺すべしと云主人わらひて汝何ぞたゝりを
なして我をとり殺すことを得んやといへば僕いや/\いかりてみよとり
殺さんといふ主人はらひて汝我を取殺さんといへばとて何の證(しよう)もなし
今その證を我にみせよその證には汝が首を刎(はね)たる時首飛で庭
石に齧(かみ)つけ夫(それ)をみればたゝりをなす證とすべしと云さて首を刎
たれば首飛びて石に齧つきたりその後何のたゝりもなくある人
その主人にその事を問(とひ)ければ主人こたへて云僕初(はじめ)はたゝりをなして我
を取殺さんとおもふ心切(こゝろせつ)なり後には石に齧つきてその験(しるし)をみせん
とおもふ志(こゝろざし)のみ専(もは)らさかんになりしゆゑたゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)
たるによりて祟なしといへり
102
101-102
国文研究資料館 国文研鵜飼
巻之三
欺て寃魂を散(あざむきてゑんこんをさんず)
人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれたとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて未来善悪
の因となれる如く狂気するものも金銀のことか色情か事にのぞ
み迫りて狂(きやう)を発する時の一念をのみいつも口ばしりゐるものなりある
人の主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云をさにあらず家業といへ
ども殺生の報はあることゝて庭なる露しげく[お]きたる樹(き)をゆりみよと
101
こたへけるまゝやがてその木(こ)の下(もと)に行て動しければその人におきたる
露かゝれりさてその人云やう怨みのかゝるもその如く云つけたる人よりは
大刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや諺にも盗(ぬすみ)する子は悪(にく)からで縄とり
こそうらめしといへるはなべての人情といふべしこれにつきて一話(はなし)あり何
某(なにがし)が家僕(かぼく)その主人に対し指(さし)たる罪なかりしがその僕(ぼく)を斬(きら)ざれば
人に対して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て主人その僕を手討にせん
とす僕憤り怨(うらみ)て云吾さしたる罪もなきに手討にせらる死後
に祟りをなして必取殺すべしと云主人わらひて汝何ぞたゝりを
なして我をとり殺すことを得んやといへば僕いや/\いかりてみよとり
殺さんといふ主人はらひて汝我を取殺さんといへばとて何の證(しよう)もなし
今その證を我にみせよその證には汝が首を刎(はね)たる時首飛で庭
石に齧(かみ)つけ夫(それ)をみればたゝりをなす證とすべしと云さて首を刎
たれば首飛びて石に齧つきたりその後何のたゝりもなくある人
その主人にその事を問(とひ)ければ主人こたへて云僕初(はじめ)はたゝりをなして我
を取殺さんとおもふ心切(こゝろせつ)なり後には石に齧つきてその験(しるし)をみせん
とおもふ志(こゝろざし)のみ専(もは)らさかんになりしゆゑたゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)
たるによりて祟なしといへり
102
101-102
国文研究資料館 国文研鵜飼
ラベル:
Diplomacy(駆け引き)
,
怪談
,
小泉八雲
2017年8月20日日曜日
教訓世界お伽ばなし 頓智の首斬
教訓世界お伽ばなし 園部紫嬌 著 石塚松雲堂 明治44.2 1911
頓智の首斬
『ア痛いと気を変えさせ。』
むかしは一寸(ちょいと)仕(し)た罪でも首を斬られたもので、此の罪人の首を斬るために、お役人とは云えぬが、穢多の頭なぞがその役目を代々親譲りで勤めたものだ、其の役目を勤めて首斬りの名人と云われた、首斬浅右エ門(くびきりのあさえもん)と云うた男が、或る時刑場(しおきば)で両人(ふたり)の罪人を並べて首を斬った時に、一人の罪人は、
『俺が首を斬られたら、向うの砂利に喰ひ付いてやる。』と云い、又一人の罪人は『俺は首を打たれたら、大刀取(たちとり)[首を斬る人]の咽喉笛(のどぶえ)へ食らい付くからそう思え。』と、さも口惜(くや)しそうに唸りながら、浅右衛門の顔を睨んだ、スルと流石に浅右衛門、何を云うかと云う風で、別に恐いの恐しいのと云う風姿(そぶり)はなく先ず刀へ水を掛けさせ、万事式(かた)の如く仕(し)て、最初一人の首を斬ると、何(ど)うでしょう、人の一念(おもい)は恐いもので、云うた如(とお)り首斬り場の向うに敷いてある小砂利へ、罪人の首は飛んで行って喰らい付いた、観る者皆慄毛(おぞげ)を振って恐れ、此次の奴の首は浅右衛門の咽咽笛へ食い付くだろう、サア大変な事に成ったと、浅右衛門の容姿(ようす)を眼を円(まろ)く仕(し)て観て居ると、其人は少しも愕(おどろ)かず、益々沈着の体度(たいど)を示し、静に罪人の背後(うしろ)へ廻って、前の如(とお)り刀へザブリ、式(かた)の如く凡てあってヤッと云う掛声諸共、首は前へ落ちたかと思うと、最初の一大刀(ひとたち)は胸打(むなうち)で、刀(は)の無い方で首筋を打ったから、痛いと罪人が思った処へ、二度目の大刀(たち)をエイと下して、美事に首を斬ったので、ソリャこそ咽喉笛と思いの外、反ってその首は意気地もなく、コロ/\コロと転げて斬穴(きりあな)へ落ちたので、見て居る者は力が抜け、何(ど)う仕たことゝ、浅右衛門の顔を眺めた。
スルと浅右衛門が笑うて云うのに、『突然(いきなり)此奴(こやつ)の首を斬れば、前の如(とお)り、屹度(きっと)咽喉笛に食い付くに違いない、処で一度胸打をくわせ、食い付こうと思い詰めた一念を、ア痛(いた)と他へ転じさせ、其処(そこ)で俄に首を斬ると、何も思はぬ首になって、是れ此通(このとお)りコロ/\と転げるのだ。』と云ったので、流石は首斬浅右衛門程あり、時に取っての好い頓智と、見た人聴いた人々は何(いず)れも感心したそうです。
国会図書館デジタルコレクション
頓智の首斬
『ア痛いと気を変えさせ。』
むかしは一寸(ちょいと)仕(し)た罪でも首を斬られたもので、此の罪人の首を斬るために、お役人とは云えぬが、穢多の頭なぞがその役目を代々親譲りで勤めたものだ、其の役目を勤めて首斬りの名人と云われた、首斬浅右エ門(くびきりのあさえもん)と云うた男が、或る時刑場(しおきば)で両人(ふたり)の罪人を並べて首を斬った時に、一人の罪人は、
『俺が首を斬られたら、向うの砂利に喰ひ付いてやる。』と云い、又一人の罪人は『俺は首を打たれたら、大刀取(たちとり)[首を斬る人]の咽喉笛(のどぶえ)へ食らい付くからそう思え。』と、さも口惜(くや)しそうに唸りながら、浅右衛門の顔を睨んだ、スルと流石に浅右衛門、何を云うかと云う風で、別に恐いの恐しいのと云う風姿(そぶり)はなく先ず刀へ水を掛けさせ、万事式(かた)の如く仕(し)て、最初一人の首を斬ると、何(ど)うでしょう、人の一念(おもい)は恐いもので、云うた如(とお)り首斬り場の向うに敷いてある小砂利へ、罪人の首は飛んで行って喰らい付いた、観る者皆慄毛(おぞげ)を振って恐れ、此次の奴の首は浅右衛門の咽咽笛へ食い付くだろう、サア大変な事に成ったと、浅右衛門の容姿(ようす)を眼を円(まろ)く仕(し)て観て居ると、其人は少しも愕(おどろ)かず、益々沈着の体度(たいど)を示し、静に罪人の背後(うしろ)へ廻って、前の如(とお)り刀へザブリ、式(かた)の如く凡てあってヤッと云う掛声諸共、首は前へ落ちたかと思うと、最初の一大刀(ひとたち)は胸打(むなうち)で、刀(は)の無い方で首筋を打ったから、痛いと罪人が思った処へ、二度目の大刀(たち)をエイと下して、美事に首を斬ったので、ソリャこそ咽喉笛と思いの外、反ってその首は意気地もなく、コロ/\コロと転げて斬穴(きりあな)へ落ちたので、見て居る者は力が抜け、何(ど)う仕たことゝ、浅右衛門の顔を眺めた。
スルと浅右衛門が笑うて云うのに、『突然(いきなり)此奴(こやつ)の首を斬れば、前の如(とお)り、屹度(きっと)咽喉笛に食い付くに違いない、処で一度胸打をくわせ、食い付こうと思い詰めた一念を、ア痛(いた)と他へ転じさせ、其処(そこ)で俄に首を斬ると、何も思はぬ首になって、是れ此通(このとお)りコロ/\と転げるのだ。』と云ったので、流石は首斬浅右衛門程あり、時に取っての好い頓智と、見た人聴いた人々は何(いず)れも感心したそうです。
国会図書館デジタルコレクション
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Diplomacy(駆け引き)
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怪談
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山田浅右衛門
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皿屋敷於菊之実伝 (久米平内)
皿屋敷於菊之実伝 泉竜亭是正 作 桜斎房種 画
編輯兼出版人 羽田冨次郎 明治十六年五月二十一日御届 (1883)
上之巻 (久米平内)
----されば又そのころ粂平内(くめのへいない)というものあり、元来強気(けんらいごうき)にして、剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞え高ければ、青山一人おもへらく「我が盗賊掛りにて召し捕ることを旨(むね)とせば、斯くなる者を抱へなば、我片腕ともなるべし」と主膳は手づるを求め平内を招きしが、粂は早速罷りせし、青山大いに喜び先ず酒食を取り出(いだ)し厚く饗応してのち、わが役儀に随身ならんとことをすゝめしが、粂は一儀にもおよばず青山に身を寄せ、然(しか)してのち、罪人首切りを願いしかば、主膳は喜びなゝめならず、斯くなることをのぞまるゝは誠に武士の本意なりと、平内をそんきょうして、是より科人首切り役を云つけゝる。
傳へきく、すいきょう人山田浅右衛門は、一代に千人つかを一本建しときゝしかども、粂の平内は一代にして二本迄たてしと聞く。蓋しこの千人塚とは、罪人の首千人切る時は一本をたてるが例なり。
されば罪人己が科ありて首切らるゝに、なんぞや太刀(たち)とりを恨むる筈はなけれども、多くは最期の一念その切り手を恨むや平内亡死(ぼっし)てのち伜が枕べに顕れ「我れ此の世にありし時多くの罪人を手に懸け、その報いにや未来の苦患(くげん)、のがるゝ隙なく、願うは此の身の姿を刻み人立ち多き所へ捨て置き風雨にさらし数多(あまた)の人が土足に懸けて踏み付けなば罪障生滅(ざいしょうしょうめつ)うたがいなし」と夢見ることの両三夜(りょうさんや)、粂が伜は大いに歎き「さては父上この世にて罪有るものとはいゝながら、多くの人を手に懸けし其の罪科(とが)のおそろしく、いまだにうかみたまわずや」と、はふり落(おつ)る涙をはらい、父が夢中(むちゅう)に知らせし通り石にて平内が姿をきざませ、往来茂き所といえば浅草雷神門まえへうち捨て罪障生滅の為、風雨にさらし人びとに土足にかけて踏み付けよと道路へまろましありけるを、いつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)い、男女(なんにょ)に限らず縁遠きは文(ふみ)をつけて願い事なせし、風雨にさへもさらされずいつの世にか一宇を建て浅草寺(あさくさでら)の境内にて、いまは一社の末社(まっしゃ)となり参詣茂くありけるは、こは則ち大慈悲の救いによりて平内も往生得脱(おうじょうとくだつ)為す-----
単純翻刻
○引渡せば----されは又そのころ
粂平内(くめのへいない)といふものあり元来強気(けんらいごうき)にして
剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞(きこ)へ高ければ
青山一人おもへらく我盗賊掛(わがとうぞくかゝり)にて召捕(めしとる)[こ]とを□
□旨(むね)と
せば
斯(かく)なる者
を抱へ
なは我
片腕と
もなるべしと⦿
⦿主膳は
手づるを求め△
△平内を招きしが粂は早
速罷りせし
青山大ひに
喜び先(まづ)酒食
を取出(とりいだ)し厚く饗
応してのちわが
役儀に随
身[な]らん
ことを[ことを]すゝめしが
粂は一儀にも
およばつ青山に身を寄
然(しか)してのち罪人首切り
を願ひしかは
主膳は
喜び■
■なゝめ
ならづ
斯(かく)なること
をのそまる
るは
08
誠に武士の
本意なりと平内を
そんきやうして是より
科人首切役を云(いゝ)
つけける傳へきく[吹挙](すいきやう)
人山田浅右衛門は一代に千人つがを
一本建しときゝしか
ども粂の平内は
一代にして二本迄
たてしと聞蓋し
この千人塚とは罪人の
首千人切時は一本をたてる
が例なりされば罪人己科(ざいにんをのれとが)ありて
首切(くびきら)るゝになんぞや太刀(たち)とりを恨むる
筈はなけれども多(を[ふ])くは最期の一念その
切手を恨むや平内亡死(ほつし)てのち伜が枕べに
顕れ我此世にありし時多くの罪人を
手に懸けその報ひにや未来の
苦患(くげん)のがるゝ隙なく願ふは此
身の姿を刻人立をふき
所へ捨置(すてをき)風雨にさらし数多(あまた)
の人が土足に懸けて踏付(ふみつけ)なば罪
障生滅(ざいしやうしやうめつ)うたがひなしと夢見ることの両三夜(りうさんや)○
○粂が伜は
大ひに歎きさては
父上この世
にて罪有(つみある)
ものとはいゝ
ながら多([をふ])くの人を
手に懸け
し其罪
科のを
そろしく
いまだ
にうかみ
たまわづ
やと
は
ふり
落(をつ)る涙(なみ)だ
を
09
はらい父が夢中(むちう)に知らせし通り
石にて平内が姿をきざませ往来
茂き所といへば浅草雷神門まへ
へうち捨罪障生滅の為風雨に
さらし人びとに土足にかけて踏
付よと道路へまろましあり
けるをいつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)ひ
男女(なんによ)に限らず縁遠きは文(ふみ)を
つけて願事なせし風雨に
さへもさらされづいつの世にか
一宇を建(たて)浅草寺(あさくさでら)の境内
にていまは一社の末社(まつしや)となり参詣(さんけい)
茂くありけるはこは則ち大慈悲の
救ひによりて平内も往生得脱為(をうせうとくだつなす)
時ならん------
10
8-10
国立国会図書館デジタルコレクション
編輯兼出版人 羽田冨次郎 明治十六年五月二十一日御届 (1883)
上之巻 (久米平内)
----されば又そのころ粂平内(くめのへいない)というものあり、元来強気(けんらいごうき)にして、剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞え高ければ、青山一人おもへらく「我が盗賊掛りにて召し捕ることを旨(むね)とせば、斯くなる者を抱へなば、我片腕ともなるべし」と主膳は手づるを求め平内を招きしが、粂は早速罷りせし、青山大いに喜び先ず酒食を取り出(いだ)し厚く饗応してのち、わが役儀に随身ならんとことをすゝめしが、粂は一儀にもおよばず青山に身を寄せ、然(しか)してのち、罪人首切りを願いしかば、主膳は喜びなゝめならず、斯くなることをのぞまるゝは誠に武士の本意なりと、平内をそんきょうして、是より科人首切り役を云つけゝる。
傳へきく、すいきょう人山田浅右衛門は、一代に千人つかを一本建しときゝしかども、粂の平内は一代にして二本迄たてしと聞く。蓋しこの千人塚とは、罪人の首千人切る時は一本をたてるが例なり。
されば罪人己が科ありて首切らるゝに、なんぞや太刀(たち)とりを恨むる筈はなけれども、多くは最期の一念その切り手を恨むや平内亡死(ぼっし)てのち伜が枕べに顕れ「我れ此の世にありし時多くの罪人を手に懸け、その報いにや未来の苦患(くげん)、のがるゝ隙なく、願うは此の身の姿を刻み人立ち多き所へ捨て置き風雨にさらし数多(あまた)の人が土足に懸けて踏み付けなば罪障生滅(ざいしょうしょうめつ)うたがいなし」と夢見ることの両三夜(りょうさんや)、粂が伜は大いに歎き「さては父上この世にて罪有るものとはいゝながら、多くの人を手に懸けし其の罪科(とが)のおそろしく、いまだにうかみたまわずや」と、はふり落(おつ)る涙をはらい、父が夢中(むちゅう)に知らせし通り石にて平内が姿をきざませ、往来茂き所といえば浅草雷神門まえへうち捨て罪障生滅の為、風雨にさらし人びとに土足にかけて踏み付けよと道路へまろましありけるを、いつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)い、男女(なんにょ)に限らず縁遠きは文(ふみ)をつけて願い事なせし、風雨にさへもさらされずいつの世にか一宇を建て浅草寺(あさくさでら)の境内にて、いまは一社の末社(まっしゃ)となり参詣茂くありけるは、こは則ち大慈悲の救いによりて平内も往生得脱(おうじょうとくだつ)為す-----
単純翻刻
○引渡せば----されは又そのころ
粂平内(くめのへいない)といふものあり元来強気(けんらいごうき)にして
剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞(きこ)へ高ければ
青山一人おもへらく我盗賊掛(わがとうぞくかゝり)にて召捕(めしとる)[こ]とを□
□旨(むね)と
せば
斯(かく)なる者
を抱へ
なは我
片腕と
もなるべしと⦿
⦿主膳は
手づるを求め△
△平内を招きしが粂は早
速罷りせし
青山大ひに
喜び先(まづ)酒食
を取出(とりいだ)し厚く饗
応してのちわが
役儀に随
身[な]らん
ことを[ことを]すゝめしが
粂は一儀にも
およばつ青山に身を寄
然(しか)してのち罪人首切り
を願ひしかは
主膳は
喜び■
■なゝめ
ならづ
斯(かく)なること
をのそまる
るは
08
誠に武士の
本意なりと平内を
そんきやうして是より
科人首切役を云(いゝ)
つけける傳へきく[吹挙](すいきやう)
人山田浅右衛門は一代に千人つがを
一本建しときゝしか
ども粂の平内は
一代にして二本迄
たてしと聞蓋し
この千人塚とは罪人の
首千人切時は一本をたてる
が例なりされば罪人己科(ざいにんをのれとが)ありて
首切(くびきら)るゝになんぞや太刀(たち)とりを恨むる
筈はなけれども多(を[ふ])くは最期の一念その
切手を恨むや平内亡死(ほつし)てのち伜が枕べに
顕れ我此世にありし時多くの罪人を
手に懸けその報ひにや未来の
苦患(くげん)のがるゝ隙なく願ふは此
身の姿を刻人立をふき
所へ捨置(すてをき)風雨にさらし数多(あまた)
の人が土足に懸けて踏付(ふみつけ)なば罪
障生滅(ざいしやうしやうめつ)うたがひなしと夢見ることの両三夜(りうさんや)○
○粂が伜は
大ひに歎きさては
父上この世
にて罪有(つみある)
ものとはいゝ
ながら多([をふ])くの人を
手に懸け
し其罪
科のを
そろしく
いまだ
にうかみ
たまわづ
やと
は
ふり
落(をつ)る涙(なみ)だ
を
09
はらい父が夢中(むちう)に知らせし通り
石にて平内が姿をきざませ往来
茂き所といへば浅草雷神門まへ
へうち捨罪障生滅の為風雨に
さらし人びとに土足にかけて踏
付よと道路へまろましあり
けるをいつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)ひ
男女(なんによ)に限らず縁遠きは文(ふみ)を
つけて願事なせし風雨に
さへもさらされづいつの世にか
一宇を建(たて)浅草寺(あさくさでら)の境内
にていまは一社の末社(まつしや)となり参詣(さんけい)
茂くありけるはこは則ち大慈悲の
救ひによりて平内も往生得脱為(をうせうとくだつなす)
時ならん------
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8-10
国立国会図書館デジタルコレクション
2017年8月18日金曜日
太平百物語 巻之一 ○四 冨次郎娘蛇に苦しめられし事
作者 菅生堂人恵忠居士 畫工 髙木幸助貞武
享保十七年子三月吉日出来 (1732)
大坂心齋橋筋書林 河内屋宇兵衞新刊
享保十七年子三月吉日出来 (1732)
大坂心齋橋筋書林 河内屋宇兵衞新刊
太平百物語冠首
市中散人裕佑(しちうさんじんゆうすけ)書
巻之一
○四 冨次郎娘蛇に苦しめられし事
越前の国に富次郎とて。代ゝ分限にしてけんぞくも数
多((あまた)持たり人有。此冨次郎一人の娘をもてり。今年十五才
なりけるが。夫婦の寵愛殊にすぐれ生れ付(つき)もいと尋常
にして。甚みめよく常に敷嶋の道に心をよせ。明暮(あけくれ)琴を弾(たん)じ
て。両親の心をなぐさめける。或時座敷の縁(ゑん)に出て庭の[気]色
を詠(ながめ)けるに。折節初春の事なれば。梅に木(こ)づたふ鶯のおのが時
得し風情にて。飛かふ様のいとおかしかりければ
わがやとの梅がえになくうぐひすは
風のたよりに香(か)をやとめまし
と口すさみけるを。母おや聞てげにおもしろくつゞけ玉
ふ物かな。御身の言の葉にて。わらはもおもひより侍ると
て取あへず
春風の誘ふ垣ねの梅が枝(え)に
なきてうつろふ鶯のこゑ
かく詠(ゑひ)じられければ。此娘聞て実(げに)よくいひかなへさせたま
ひける哉と。互に親子心をなぐさめ楽しみ居(ゐ)ける所に。
むかふの樹木(じゆぼく)の陰より。時ならぬ小蛇壱疋する/\といでゝ。此
10
娘の傍(そば)へはひ上るほどに。あらおそろしやと。内にかけいれ
ば。蛇も同じく付て入(いる)。人/\あはて立出(たちいで)て杖をもつて
追はらへども。少しもさらず。此娘の行方(ゆくかた)にしたがひ行く。母
人(はゝびと)大きにかなしみ夫(おつと)にかくと告(つげ)ければ。冨次郎大きに
おどろき。従者(ずさ)を呼て取捨させけるに。何(いづ)くより来る
ともなく。頓(やが)て立帰(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。幾度すてゝも
元のごとく帰りしかば。ぜひなく打殺(うちころ)させて遥(はるか)の谷に
捨けるに。又立帰りてもとの如し。こはいかにと切ども突
ども。生帰り/\て中/\娘の傍を放れやらず。両親を
はじめ家内の人/\。如何はせんと歎かれる。娘もいと
11
浅ましくおもひて。次第/\によはり果。朝夕(てうせき)の食事とて
もすゝまねば。今は命もあやうく見へければ。諸寺諸社への
祈祷山伏ひじりの呪詛(まじなひ)。残る所なく心を尽せども。更
に其験(しるし)もあらざれば。只いたずらに娘の死するを守り
居(ゐ)ける。然(しか)るに当国永平寺の長老。ひそかに此事を聞
玉ひ。ふ便(びん)の事におぼし召。冨次郎が宅に御入有て。娘の
様体蛇がふるまひを。つく/\と御覧あり。娘に仰せける
やうは。御身座を立て向ふの方に歩み行べしと仰せに
したがひ。やう/\人に扶(たすけ)られ廿歩計行(にじつほばかりゆく)に。蛇も同しくし
たがひ行。娘とまれば蛇もとまる。時に長老又こなたへ
とおほせけるに。娘帰れば蛇も同じく立帰る所を長
老衣の袖にかくし。持玉ひし壱尺余りの木刀にて。此蛇が敷
居をこゆる所を。つよくおさへ玉へば。蛇行事能はずして。此
木刀を遁れんと。身をもだへける程。いよ/\強く押(おさ)へたま
へば。術(じゆつ)なくや有けん。頓(やが)てふり帰り木刀に喰付所を。
右にひかへ持玉ひし。小剣(こつるぎ)をもつて頭(かしら)を丁ど打落し玉ひ。
はや/\何方(いづかた)へも捨(すつ)べしと仰にまかせ。下人等(ら)急ぎ野辺
に捨ける。其時長老宣(のたま)ひけるは。最早(もはや)此後来(きた)る事努(ゆめ)
/\あるべからず。此幾月日の苦しみ両親のなげぎ。おもひ
やり侍るなり。今よりしては心やすかれとて。御帰寺(ごきじ)あ
12
りければ。冨次郎夫婦は余りの事の有難(ありがた)さになみだを
ながして御後影(おんうしろかげ)を伏拝(ふしおが)みけるが。其後は此蛇ふたゝびき
たらず娘も日を経て本復(ほんぶく)し元のごとくになりしかば。
両親はいふにおよばず一門所縁(しよゑん)の人/\迄悦ぶ事かぎ
りなし誠に有難き御僧かなとて聞人感涙をながし
ける
評じて曰。蛇木刀に喰付たる内。しばらく娘の事を忘れたり。其
執心のさりし所を。害し給ふゆへに。ふたゝび娘に付事与(あた)はず。
是併(しかしなが)ら。智識の行ひにて。凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一
固に限らず。萬(よろづ)の事におよぼして。益ある事少からず。諸人能(よく)思(おも)へかし[候へ]
13
10-13
早稲田大学図書館古典籍総合データベース
注:
11の画は第三話「真田山の狐伏見へ登りし事」の挿絵
第四話の画は、15にある。
ラベル:
Diplomacy(駆け引き)
,
怪談
,
小泉八雲
,
説話
2017年8月12日土曜日
今古実録 怪談皿屋敷実記
今古実録 怪談皿屋敷実記 : 栄泉社 明治19年
古今実録序詞
我往古一度文物の端を開き稍(やゝ)盛典の時と得しも中世(ちうせい)の戦国乱離を極め古書歴史は多く兵燹(へいせん)に羅り其存する者数部を闕けり此年歴文物(このねんれきぶんぶつ)も又廃れ学事を保する者纔(わづか)に浮屠氏(ふとし)に過ず近世(きんせい)足利氏以降元亀天正の頃まで武門に博識の徒出(いで)しもあれど猶干[才(戈)]止む時なく文学たま/\公卿武家に波及するのみ期(とき)に僧侶なくんば平家物語太平記諸軍記の編述今世(こんせい)に傳ふるなきに至らん歟(か)故に我国の軍記史略に多く佛語を引く者は蓋し釈氏の手に成しを以てなり坊間貸本と称ふる俗書の今に傳ふるも是又僧徒の著述に成る物数巻(すくわん)その事跡虚を省き最も実に近きを撰(えら)み尚ほ引証に依て校正全き栄泉社中の蔵版に於る世の貸本を網羅して略尽(ほゞつく)せるの功勉(こうつとめ)たりと云も可(か)ならん此(こゝ)に於て今古実録(きんこじつろく)の題名目下世間に普(あまね)きも亦宜(むべ)ならずや以て簡端(かんたん)に序すると爾云(しかいふ)
明示一九年第四月 佛骨庵主 仮名垣魯文曳誌
怪談更屋敷実記序
名さへなまめく姫路の城下浅山鉄山が下館(しもやかた)とは彼(かの)幕明の置浄瑠理(おきじようるり)其実録を今玆に書綴りたる此史(このふみ)はと云ば弊社の作らしいが一字(すこし)も著述の筆労(ほねをり)なく古昔(むかし)の人の水ぐきの跡を其まゝ梓(デハナイ)活字に拾ひ大安売の二冊もの願ふは四方(よも)の評判ヂヤ/\
栄泉社員虚述
○粂(くめ)の平内(へいない)由緒生立(ゆいしよおひたち)の事
並 盗賊を打果す事
其頃江戸の浪人者ににて粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)と云大胆不敵の武士(さふらひ)あり其祖父は織田信長公の足軽を勤務(つとめ)武勇も人に優(まさ)りし者なりしが京都本能寺に於て信長公御生害(ごしやうがひ)有し後其身の生国武州八王子に引籠り剣術を指南なし一生浪人にて生計(くらし)けるが其子薪兵衛(しんべゑ)は父の業を嗣(つぎ)門人も数多有て是も生涯浪人にて世を安々生計(くらし)けるに男女三人の小児(こども)有て男児を平五郎と呼後に平内兵衛(へいないびやうゑ)と號(なづ)く其生質怜悧(そのうまれつきれいり)にして筋骨(すぢぼね)太く逞く身の丈は六尺有余(あまり)にして又力量も双(ならび)なく剣術柔術共に父の極秘を授与(さづけ)られ其成長するに随ひては骨柄芸能(こつがらげひのう)共に父にも優りて一廉(かど)の者なれ共唯大酒(たひしゆ)を好み力量自慢(ちからじまん)にして近郷近在を暴れ歩行(あるき)人を人とも思はず良(やゝ)もすれば無体に打擲する事屡々有しかば父の薪兵衛も之を洩聞て時々異見を加ふれども更に其辞(ことば)を用ひず、父薪兵衛は是を気病(きやみ)になし終(つひ)に空敷(むなしく)なりにける然(さ)れば其後平五郎は倍々(ます/\)自慢の心を生じ今恐らくは我に優りし武芸力量の者近郷近村には是有まじ此上(このうへ)は諸国を武者修行して諸人の腕を試み其後江戸へ出(いで)仕官にも有付べし且(かつ)老母には父の求め置れし田地あれば不自由も有まじ殊更に姉妹等(あねいもとら)傍らに在て労り介抱すれば深く案ずるに及ばず此事母へ告なば歎き悲しみて許し給ふまじ寧ろ一通を遺書(かきのこ)して立退(たちのく)に如ずと思ひ定めて或夜心安き方に至りて一泊し窃(ひそか)に旅(たび)の支度をなし住馴し国を立去(たちさり)名をも粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)と改め一先(ひとまづ)川越の城下に到りてニ三日の程逗留し此処彼処(こゝかしこ)と徘徊しけれども是と云相手に立べき者も無(なか)りけるにより不斗(ふと)思ひ出(いだ)せしには上州は百姓町人に至る迄勇気強く武芸を磨く土地(ところ)なれば彼地に到りて力量武術を顕はさんと決定し直ちに上州高崎に到り宿を需(もとめ)日毎/\に相手欲やと心待して居ける折柄此土地近き里の大(おほ)百姓の家に二十余人の夜盗(よたう)入て抜身を鼻の先に突付金銀衣類の在処(ありしよ)をば素直に案内すればよし隠し立して怪我するなと威(をと)し文句で責付られしに大勢なれ共百姓の事故誰とて拒む者もなく生命(いのち)に替る財宝(たから)なしと土蔵(くら)の中(うち)へ案内せし間に小賢(こさか)しき男一人脱出し宿中へ走り行て斯様/\と急遽(あはたゞ)しく喚(さけ)びけるにぞ俄然(にはか)に宿中の者共騒ぎ立(たち)しか共二十人余(よ)の強盗と云ひ殊に得物を持て居るとの事故皆々恐怖(おぢおそれ)誰とて向(むか)はんと云者なく唯々遠巻になし拍子木薬缶の蓋或ひは太鼓の類を手当り次第にグワン/゛\打鳴しけるに彼(かの)平内兵衛(へいないびやうゑ)は寝耳に聞付(きゝつけ)何事の起りしやと様子を聞くに大家(たいけ)へ強盗廿余人押入唯今土蔵(くら)の中(うち)に居るとの事を打聞(うちきゝ)平内(へいない)は雀躍(こをどり)して爰ぞ日来(ごろ)の望む所ニ十人や三十人の強盗共が押入りたりとて何程の事や有んと予て用意の鎖帷子を着(ちやく)しニ尺八寸の新身(あらみ)の業物(わざもの)を帯び三尺有余(あまり)の鉄杖(てうじやう)を携へ飛が如くに駈出(かけいだ)し皆々我に続くべしと云つゝ傍(かた)へを見遣り火鉢の灰を掴み出(いだ)して銘々是を紙に包みて目潰しに打付(うちつけ)べしと指揮(さしづ)をなし又一目散に彼処(かしこ)へ走り着様子を見るに強盗共は緩々(ゆる/\)と土蔵(くら)の中(うち)にて荷作り最中故機(をり)こそよけれと平内(へいない)は持(もた)せ来りし灰を取出(とりだ)し盗人と見たらば無二無三に其灰を投付よあは能(よく)ば擲(なぐ)り倒せと云含め平内兵衛は真先に進み土蔵(くら)の戸口に立塞(たちふさ)[が]り大音声に呼(よば)はりけるは此中(このうち)なる盗賊奴等(どうぞくめら)早/\此所(こゝ)に立出(たちいで)よ片端より細首引抜得さすべし斯云(かくいふ)某(それが)しは日本国中武者修行に数年(すねん)の琢磨を経たる武州八王子の住人粂(くめ)の平内兵衛道則(へいないひやうゑみちのり)なり仮令鬼神(きじん)と雖も我名を聞(きか)ば恐怖(おそれ)戦慄(おのゝ)きて遠く其後を避(さく)るなり我今宵此宿(しゆく)に泊り合せしは汝等が運の尽る所なれば神妙に詫言(わびこと)して退ぞくば生命(いのち)だけは助け得さすべし然(さ)もなくば即座に眼に物見せて呉(くれ)んずと罵りつゝ如何にや如何にと呼はれど盗人共は有無(うむ)の答もなく小癪なり切殺せと云まゝ一同に抜連(ぬきつれ)切(きつ)て懸るに平内兵衛は少も騒がず抜合(ぬきあは)せ上段下段と対戦(あしらひ)居りしが後より追付来りし宿内の若者等十四五人予て平内の指揮(さしづ)に因(よつ)て紙に包みし灰玉を目潰しに投付けるに家内の男等も是を見て得たりや得たりと灰を包み手当り次第に賊の面部へ打付し故盗人共は是に辟易なし其出口をさへ踏迷ひ狼狽廻る処を平内手早く片端より切捨/\何の苦もなく二十余人の盗人どもを切殺しければ此家(このや)の主は云に及ばず宿中(しゆくちう)の者共歓ひ大方ならず平内兵衛が技術(てなみ)を感じ合しが斯(かく)なる上は此死骸を如何致して宜しいからん後々の事を打案じ万一(もし)此儘捨置たらんには仲間の者共何時かは仕返しに来るべしとて評議区々(まち/\)なるを聞(きゝ)平内兵衛は主に向ひ今夜の始末を明細に土地(ところ)の代官所へ訴へ表向指揮(さしづ)に随ひ取計らひなば後/\の愁は有まじと申にぞ是に同意して早速此趣(おもふ)きを訴へければ直様役人等出張なし賊の死骸を検査(あらため)取捨方等(とりすてかたとう)を申付又平内兵衛の働作(はたらき)を感賞し事故なく検使も相済(あひすみ)ければ此家(このや)の主人(あるじ)は大いに歓び全く平内兵衛が勇猛の働きに依て厄難を遁れたりとて厚く謝礼抔(など)して尊敬(そんきやう)なしければ所の者共平内が武術は日本一などゝ評判なすにより今は日来(ひごろ)の慢心百倍し凡そ天が下広しと雖も我に及ぶ者は有まじと思ひ以後他国を廻るも益なき事をて是より江戸に至りて高名なる剣術の師匠を訪(とひ)是を打すゑて技術(てなみ)を顕し過分の禄に有付(ありつか)ん者と心を定め所の人々名残を惜むにも構はず聊か江戸に知音有を頼みにして高崎を打立一先江戸へと赴きけり
○青山主膳平内を召抱へ平内首切役を望む事
並 罪人打首の節頓智及び平内死去の事
却説(かくて)粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)は程なく江戸に到着なし本郷辺(へん)に住居を定め剣術指南の道場を開きける所(ところ)僥倖(さいはひ)に門弟等も殖(ふえ)るに随ひ或人の勧めにより妻を迎へ一子迄も挙(もう)けしが天性強気(がうき)の平内故往来(ゆきゝ)の者を打擲などする事屡々有しが其頃江戸に男侠客(をとこだて)と云事の流行し将軍家旗本の中(うち)にも大小神祇組(しんぎぐみ)又は白柄組(しらつかぐみ)などあり町家(ちやうか)にも同く侠客(をとこだて)流行して其中(そのうち)には浪人なども入交(いりまじ)り居(をる)ゆゑ平内も盛り場等(とう)人の群集(くんじゆ)する土地へ出(いで)ては弱きを助け強きを挫きて男を磨きけるに付(つき)自然と人々も尊敬(そんきやう)成して其名最も高く聞えしを青山主膳は疾くも聞込役柄成れば召抱て役に立事も有べしと思ひ自身に粂の宅に到り礼を厚くして懇望(こんまう)成せしに平内には素より小碌(せうろく)の人に抱へられるは不足なりと雖も是も後々には何かの都合に宜しからんと早速に承知せしかば青山の歓悦(よろこ)び限りなく過分の碌を与へ用人並を申付しに同気相求(どうきあいもと)むる主従の縁にや彼(かれ)がする事なす事悉皆(みな)心に適ひしかば青山は倍々(ます/\)不仁(ふじん)の行ひ募り日々平内を対手(あいて)に酒宴を開き又は罪人を責させるを此上(こよ)なき娯楽(たのしみ)と成(なせ)しが或日平内には死罪の者の首切役を懇望(こんまう)しけるに主人主膳是を聞(きゝ)彼が強気(がうき)にては必ず手際も宜しからんと之を許せしが是ぞ首切役の最初(はじめ)なり夫(それ)より伝はりて山田浅右衛門と云者代々其役を勤(つとむ)ると雖も其根本(もと)を訪ぬれば主膳の勤役(きんやくちう)に其役の人を極(きめ)しと云又粂の平内兵衛が千人塚とて罪人の首を千切[た]る故役中(やくちう)に二度迄塚を建し事あり山田浅右衛門も麻布の善福寺に千人塚を建たるは前にも云如く諸人の知る処にして今に存せり然るに粂の平内は或時大勢の死罪人を牢屋の前に居並(すゑなら)べ自ら傍へ立寄(たちより)先最初(まづさいしよ)の一人を切らんとする時罪人は此方(こなた)に向ひ我只今首を切られなば向ふの草へ喰付て見せんと云しに頓(やが)て首が落(おつ)ると其儘言葉に違(たが)はず遥か彼方の草にぞ喰付ける次の死罪人我は那(あ)の石に喰付(くひつか)んと云しに是も同じく前の如く石に喰付たり扨(さて)其次の一人(にん)平内を見て我は切手(きりて)の粂殿に喰付(くひつく)べしと云を聞(きゝ)平内も流石に気味悪く思ひしかども人の見る目も恥ければ屹度(きつと)意(こゝろ)に思案して罪人に向ひ汝(おのれ)今が最期なり覚悟すべしと云(いへ)ば如何にも心得たり頓(やが)て汝(なんぢ)に喰付て見せんと然(さ)も怨めしき顔色にて一念の凝る所をエイト云様(いひさま)刀の峯打(みねうち)になせしかば罪人是はと振向く処を気を抜(ぬき)て何の苦もなく首を打落したり彼(かの)死罪人は張詰(はりつめ)し気も峯打に拍子抜せし所を打落しければ罪人の一念も届かざりしとなり一座の人々其頓智を感じて評判最(もつ)とも高かりけるが夫よりして平内兵衛不図煩ひ付(つき)日々鬱々として居たりけるが小雨の降る日などは数多の首ども眼前(めさき)に顕(あら)はれ粂殿迎ひに参りしぞや率々(いざ/\)早く来(きた)らるべしと云ながら平内に飛蒐(とびかゝ)らんと成(なし)けるを平内臆せず刀おつ取切払へば忽地(たちまち)消て跡もなく白刃(しらは)を鞘に納むれば又顕出(あらは)れて驚かす事其後は昼夜の別(わか)ちなく首の数は漸次(しだい)に増(まし)て或は怨み又は罵り粂殿にははや命数尽たり夫故(それゆゑ)我々打揃ひて迎へに参りしなりいざ倶々(とも/゛\)来れと飛付て手取足取責られしに流石の平内も身体疲労(つか)れ日々に衰弱なしアレ囂(かまび)すや堪難(たへがた)やと狂ひ廻れど彼(か)の首は家内の者に見えずして唯平内の眼前(めさき)を放(はな)れず悶え苦しむ有様を見て人々種々に療養を加へしかども毫(すこし)も効験(しるし)の無くソレ其首を捨よソレ切払へと罵り後には刀を引抜狂ひ廻りけるに付(つき)家内の心配大方成ず終(つひ)には止(やむ)を得ず平内の身体(からだ)に縄をかけ罪人の如く捕縛置(いましめおき)しかば是よりして平内は尚々大声を発して詈(のゝし)り騒ぐ事昼夜絶(たゆ)る間なく汝等大罪人で有ながら卑怯にも我を怨恨(うらみ)斯(かく)苦しむるは何事ぞ其身の自業自得なり未練者めと詈(のゝし)りつゝソレ首打と叫びける故皆(みな)人恐怖(おそれ)て側(そば)へ寄付者なく且は世間へ遠慮も有ば昼も戸障子を締切大概(およそ)百日有余(あまり)苦痛なし終には声も枯切只手足を?く耳なりしが皮肉も摩擦切(こすりきれ)て海老を茹たる如く赤肌に爛れ上(あが)り狂ひ死(じに)にぞ死(し)したりける斯(かゝ)りし程に妻子(つまこ)の歎きは云(いふ)も更なり人々も気の毒に思ひ跡念頃(ねんごろ)に弔ひて七日/\の供養法事も怠りなく執行(とりおこな)ひけるが四十九日に至りし夜(よ)妻の枕辺(まくらべ)に平内来り我生涯の積悪不仁(せきあくふじん)の罪重りて地獄の呵責に寸暇(いとま)なし然(しか)れば其業消滅の為我像を石に彫刻(ほら)せ人足(ひとあし)の繁(しげ)き場所(ところ)へ建置(たておき)て万億の人に曝し呉(くれ)よ然(さ)すれば罪も少しは消滅(めつ)し未来の為にも成らんかといふかと思へば影消て更行(ふけゆく)鐘ぞ聞えける扨は夢にて有しかと妻は此事打案じ人に語るも恥(はづ)かしく一日(ひとひ)/\と過(すぐ)る中(うち)夜毎(よごと)/\の夢の告(つげ)に止事(やむこと)を得ず子息(せがれ)を始め人々いも相談なし平内兵衛(へいないびやうゑ)の石像を彫刻(ほら)せ人足(ひとあし)多きは浅草金龍山(あさくさきんりうざん)なる観世音の境内に超所(こすところ)なしとて百ケ日目に濡仏(ぬれほとけ)を建立して露霜にうたせ未来の苦患(くげん)を助けんと弁天山の近傍(ほとり)に是を建たりけり其後何者が云出(いひいで)けん此濡仏に利益(りやく)有とて人足の絶ざりければ境内の茶店(ちやゝ)揚弓店(やうきうみせ)の婦女共(をんなども)など此粂の平内様へ願へば何事にても叶ふとて尊敬(そんきやう)せし余り小き祠を立て安置しける故愈々市中に評判高く成(なり)信仰人(しんかうにん)は倍々(ます/\)増殖(ふゑ)て其仏力(ぶつりき)を授け給へば立身出世奉公望(ほうこうのぞみ)主従和合(しゆう/゛\わがふ)縁結び又は恋路の取持(とりもち)中にも遊女芸者等(ら)客縁は勿論(もちろん)年明情郎(ねんあけよきひと)に添(そは)るゝとか或ひは金銀の貸借(かしかり)万端(よろづ)の願ひ一ツとして成就せざるはなく殊に一筆(ひとふで)しめしまゐらせ候又は一筆啓上などゝ己(おのれ)/\が祈願(ねぎごと)を文(ふみ)認(したゝ)め捧ぐれば利益必らず著明(いちじ[ろ])しとて祠の中へ投入る手前勝手も多かりけり然るに其頃の事なりしか神田紺屋町に仕入の染物を渡世(とせい)になし相澤屋亀右衛門とて近隣に双(なら)びなき豪家(がうか)にして職人ども日々ニ三十人づゝ立働き男女(なんによ)の奉公人も大勢召使ひ其一家(いつけ)豊に生計(くら)せしが一人の娘有名をお染と呼年は二八の花盛り人の目に立(たつ)愛敬(あいきやう)に一しほ両親(ふたおや)も愛(いつく)しみ深く此隣家(このとなり)に岩国屋半四郎と云紙問屋あり是も福有(ふくいう)の大商人(おほあきんど)にて其家に二人の男子有(なんしあり)惣領を美之助(みのすけ)と呼次男を政次郎と云(いふ)生質肌目細(うまれつきゝめこま)かにして色白く親に勝れし美男なりとの評判なりしが彼娘(かのむすめ)お染は何時しか美之助を見染(みそめ)て恋慕(こひしたひ)けれ共互ひに大家(たいけ)の事故内外(うちと)の人目も繁く言寄間(いひよるひま)も有ざれば心の中(うち)に思ふ耳(のみ)にて日夜胸を焦し居たりしに一日(あるひ)下女共寄集り此頃世間に風聞高(とりさたゝか)き浅草の粂の平内様は其利益著明(あらたか)にして何事も叶はぬと云事なく殊に恋路の取持は速かに叶ふと云噂話しをなし居たるを聞(きゝ)て娘お染は密かに悦喜(よろこび)其翌日母(はゝ)に打向ひア[ノ]浅草の観音様へ百日参りをなせば御両親様を始め家内安全家繁昌し又好縁(またよきえん)をも結び一生夫に見限られぬとか云事を何かの本にて見し事あり何卒(どうぞ)お参詣(まゐり)致したしと強(しひ)ての望みに素より愛子(あいし)の立願故父にも斯(かく)と告(つげ)けるに直(たゞ)ちに許しの出(いで)たるにぞ日頃気に入の下女を招き密(ひそか)に心を打明(うちあか)し倶(とも)に談合(かたらひ)ながら文(ふみ)細々(こま/゛\)と書認(したゝ)め下女丁稚を召連て浅草寺(あさくさでら)へぞ急ぎける折柄其日は十八日の縁日にて参詣人も群集(くんじゆ)するに二人は観音堂を忽(そこ)/\に拝み直様(すぐさま)粂の祠に到り彼(か)の文を捧げて一心不乱に祈願(きぐわん)を籠夫より日々に通ひしが十七日目(ひとなぬかめ)の日(ひ)例(いつも)の如く懇情(ねんごろ)に拝み居たる傍らより供女(ともをんな)が袂を引故何事やらんと振向見れば今も今とて恋慕ふ心の丈を念願(ねんじ)たる彼の美之助が此方(こなた)を指て来るにぞ余りの事の嬉しさに胸轟きて忙然と顔打眺り居たりしが美之助は傍に立寄是はお隣の娘子(むすめご)ひよんな所でお目に懸(かゝ)りました見れば忍びの御参詣而(して)粂さまへのお願は荒増(あらまし)お察し申ましたが世の中にはお羨ましいお人もあるものお楽しみでござりますと云に娘は顔赤らめ如何にも恥らふ有様故彼(かの)美之助は如才なく傍辺(かはへ)の下女に声を掛(かけ)最早(もはや)御支度時分なり奥山を御案内ながらお供を致して参りませうと言(いは)れて嬉しく恥かしく間の悪さうなお染の素振りに下女は傍(そば)から急立(せきたつ)て丁度好お道連サア/\お供と云ふのを機会(しほ)に彼方此方(あちこち)と奥山を見巡(みまは)り其頃名高き菜飯茶屋(なめしちやゝ)へぞ入(いり)にける其後相沢屋の娘は日々浅草へ参詣するに随(したが)ひて顔色(がんしよく)漸次(しだい)に青ざめ何(なに)となく様子も平常(つね)に変りしかば母は大いに案じ供の下女に段々様子を尋ぬれ共最初の程は只管(ひたすら)に押隠して云ざりが猶も種々に問詰られ詮方尽て有の儘少しも隠さず説話(はなし)ければ母親は大いに驚き如何に深く云交(いひかは)すとも一人娘の事故他家へ遣(やる)事も成難く又隣家の子息(むすこ)も跡取の事なれば此方(こなた)へも呉まじ然(さ)すれば互に始終の為ならず然(さり)とて此事父に説話(はな)せば嘸(さぞ)や立腹する成(なら)んと千々(ちゞ)に心を痛めしが年老し手代を招き内々事の始末を言含め隣家(となり)の両親へ密に説話(はなさ)せけるに岩国屋にては此事を聞(きゝ)て以ての外に驚き当家の惣領息子は先般(さきごろ)近所の火事の時踏抜(ふみぬき)をなし凡そ一ヶ月も跡より平臥居(ふせりをり)今に座敷の内さへも歩行兼(あるきかね)る体(てい)なれば勿々(なか/\)浅草抔(など)とは思ひも寄らぬお説話(はなし)なり然し念の為当人を糺すべしとて子息(むすこ)を呼寄せ此趣旨(このおもふき)を申聞(きけ)れば決して然様(さやう)の覚えはなしとの答故右の事情(ことがら)を挨拶しければ手代は早々(そう/\)立帰り母親へ斯(かく)と告るにより母は愈々不審に思ひ供せし下婢(をんな)に再び問(とへ)ど全く前の話に相違なしとの事に付其翌日は供の者にも何か密々(みつ/\)言含め娘に知らせず母親は番頭一人を召連て見え隠れに跡をつけて行とも知らぬ彼娘(かのむすめ)お染は雷神門(かみなりもん)へ至る頃(ころ)例(いつも)の息子と出逢(いであふ)て連立行(つれだちゆき)しは紛ふ方(かた)なき隣家(となり)の美之助なれば母は猶も何処(いづく)へ行かと跡を慕ひ行(ゆき)しに粂の祠へ参詣なし夫より奥山なる彼の菜飯茶屋へ立入ける弥々(いよ/\)怪しく思ひしなれど其日は確乎(しか)と見届し故家に帰りて只一人熟々(つく/゛\)と思ひ廻すに那然確実(あれほどたしか)の證拠あるを憎(につ)くき隣家(となり)の挨拶かな最(も)一度明日付行(つけゆき)て二人共に捕来(きた)り親子三人(みたり)の面(つら)の皮を剥て腹癒(はらいせ)成(なす)べしと余に腹の立しまゝ我娘の恥辱(はぢ)と成にも心付ず足ずも成(なし)て翌日を待兼居たるも女気(をんなぎ)の最愚(いとおろか)なる事共なり
国会図書館デジタルコレクション
ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)
古今実録序詞
我往古一度文物の端を開き稍(やゝ)盛典の時と得しも中世(ちうせい)の戦国乱離を極め古書歴史は多く兵燹(へいせん)に羅り其存する者数部を闕けり此年歴文物(このねんれきぶんぶつ)も又廃れ学事を保する者纔(わづか)に浮屠氏(ふとし)に過ず近世(きんせい)足利氏以降元亀天正の頃まで武門に博識の徒出(いで)しもあれど猶干[才(戈)]止む時なく文学たま/\公卿武家に波及するのみ期(とき)に僧侶なくんば平家物語太平記諸軍記の編述今世(こんせい)に傳ふるなきに至らん歟(か)故に我国の軍記史略に多く佛語を引く者は蓋し釈氏の手に成しを以てなり坊間貸本と称ふる俗書の今に傳ふるも是又僧徒の著述に成る物数巻(すくわん)その事跡虚を省き最も実に近きを撰(えら)み尚ほ引証に依て校正全き栄泉社中の蔵版に於る世の貸本を網羅して略尽(ほゞつく)せるの功勉(こうつとめ)たりと云も可(か)ならん此(こゝ)に於て今古実録(きんこじつろく)の題名目下世間に普(あまね)きも亦宜(むべ)ならずや以て簡端(かんたん)に序すると爾云(しかいふ)
明示一九年第四月 佛骨庵主 仮名垣魯文曳誌
怪談更屋敷実記序
名さへなまめく姫路の城下浅山鉄山が下館(しもやかた)とは彼(かの)幕明の置浄瑠理(おきじようるり)其実録を今玆に書綴りたる此史(このふみ)はと云ば弊社の作らしいが一字(すこし)も著述の筆労(ほねをり)なく古昔(むかし)の人の水ぐきの跡を其まゝ梓(デハナイ)活字に拾ひ大安売の二冊もの願ふは四方(よも)の評判ヂヤ/\
栄泉社員虚述
○粂(くめ)の平内(へいない)由緒生立(ゆいしよおひたち)の事
並 盗賊を打果す事
其頃江戸の浪人者ににて粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)と云大胆不敵の武士(さふらひ)あり其祖父は織田信長公の足軽を勤務(つとめ)武勇も人に優(まさ)りし者なりしが京都本能寺に於て信長公御生害(ごしやうがひ)有し後其身の生国武州八王子に引籠り剣術を指南なし一生浪人にて生計(くらし)けるが其子薪兵衛(しんべゑ)は父の業を嗣(つぎ)門人も数多有て是も生涯浪人にて世を安々生計(くらし)けるに男女三人の小児(こども)有て男児を平五郎と呼後に平内兵衛(へいないびやうゑ)と號(なづ)く其生質怜悧(そのうまれつきれいり)にして筋骨(すぢぼね)太く逞く身の丈は六尺有余(あまり)にして又力量も双(ならび)なく剣術柔術共に父の極秘を授与(さづけ)られ其成長するに随ひては骨柄芸能(こつがらげひのう)共に父にも優りて一廉(かど)の者なれ共唯大酒(たひしゆ)を好み力量自慢(ちからじまん)にして近郷近在を暴れ歩行(あるき)人を人とも思はず良(やゝ)もすれば無体に打擲する事屡々有しかば父の薪兵衛も之を洩聞て時々異見を加ふれども更に其辞(ことば)を用ひず、父薪兵衛は是を気病(きやみ)になし終(つひ)に空敷(むなしく)なりにける然(さ)れば其後平五郎は倍々(ます/\)自慢の心を生じ今恐らくは我に優りし武芸力量の者近郷近村には是有まじ此上(このうへ)は諸国を武者修行して諸人の腕を試み其後江戸へ出(いで)仕官にも有付べし且(かつ)老母には父の求め置れし田地あれば不自由も有まじ殊更に姉妹等(あねいもとら)傍らに在て労り介抱すれば深く案ずるに及ばず此事母へ告なば歎き悲しみて許し給ふまじ寧ろ一通を遺書(かきのこ)して立退(たちのく)に如ずと思ひ定めて或夜心安き方に至りて一泊し窃(ひそか)に旅(たび)の支度をなし住馴し国を立去(たちさり)名をも粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)と改め一先(ひとまづ)川越の城下に到りてニ三日の程逗留し此処彼処(こゝかしこ)と徘徊しけれども是と云相手に立べき者も無(なか)りけるにより不斗(ふと)思ひ出(いだ)せしには上州は百姓町人に至る迄勇気強く武芸を磨く土地(ところ)なれば彼地に到りて力量武術を顕はさんと決定し直ちに上州高崎に到り宿を需(もとめ)日毎/\に相手欲やと心待して居ける折柄此土地近き里の大(おほ)百姓の家に二十余人の夜盗(よたう)入て抜身を鼻の先に突付金銀衣類の在処(ありしよ)をば素直に案内すればよし隠し立して怪我するなと威(をと)し文句で責付られしに大勢なれ共百姓の事故誰とて拒む者もなく生命(いのち)に替る財宝(たから)なしと土蔵(くら)の中(うち)へ案内せし間に小賢(こさか)しき男一人脱出し宿中へ走り行て斯様/\と急遽(あはたゞ)しく喚(さけ)びけるにぞ俄然(にはか)に宿中の者共騒ぎ立(たち)しか共二十人余(よ)の強盗と云ひ殊に得物を持て居るとの事故皆々恐怖(おぢおそれ)誰とて向(むか)はんと云者なく唯々遠巻になし拍子木薬缶の蓋或ひは太鼓の類を手当り次第にグワン/゛\打鳴しけるに彼(かの)平内兵衛(へいないびやうゑ)は寝耳に聞付(きゝつけ)何事の起りしやと様子を聞くに大家(たいけ)へ強盗廿余人押入唯今土蔵(くら)の中(うち)に居るとの事を打聞(うちきゝ)平内(へいない)は雀躍(こをどり)して爰ぞ日来(ごろ)の望む所ニ十人や三十人の強盗共が押入りたりとて何程の事や有んと予て用意の鎖帷子を着(ちやく)しニ尺八寸の新身(あらみ)の業物(わざもの)を帯び三尺有余(あまり)の鉄杖(てうじやう)を携へ飛が如くに駈出(かけいだ)し皆々我に続くべしと云つゝ傍(かた)へを見遣り火鉢の灰を掴み出(いだ)して銘々是を紙に包みて目潰しに打付(うちつけ)べしと指揮(さしづ)をなし又一目散に彼処(かしこ)へ走り着様子を見るに強盗共は緩々(ゆる/\)と土蔵(くら)の中(うち)にて荷作り最中故機(をり)こそよけれと平内(へいない)は持(もた)せ来りし灰を取出(とりだ)し盗人と見たらば無二無三に其灰を投付よあは能(よく)ば擲(なぐ)り倒せと云含め平内兵衛は真先に進み土蔵(くら)の戸口に立塞(たちふさ)[が]り大音声に呼(よば)はりけるは此中(このうち)なる盗賊奴等(どうぞくめら)早/\此所(こゝ)に立出(たちいで)よ片端より細首引抜得さすべし斯云(かくいふ)某(それが)しは日本国中武者修行に数年(すねん)の琢磨を経たる武州八王子の住人粂(くめ)の平内兵衛道則(へいないひやうゑみちのり)なり仮令鬼神(きじん)と雖も我名を聞(きか)ば恐怖(おそれ)戦慄(おのゝ)きて遠く其後を避(さく)るなり我今宵此宿(しゆく)に泊り合せしは汝等が運の尽る所なれば神妙に詫言(わびこと)して退ぞくば生命(いのち)だけは助け得さすべし然(さ)もなくば即座に眼に物見せて呉(くれ)んずと罵りつゝ如何にや如何にと呼はれど盗人共は有無(うむ)の答もなく小癪なり切殺せと云まゝ一同に抜連(ぬきつれ)切(きつ)て懸るに平内兵衛は少も騒がず抜合(ぬきあは)せ上段下段と対戦(あしらひ)居りしが後より追付来りし宿内の若者等十四五人予て平内の指揮(さしづ)に因(よつ)て紙に包みし灰玉を目潰しに投付けるに家内の男等も是を見て得たりや得たりと灰を包み手当り次第に賊の面部へ打付し故盗人共は是に辟易なし其出口をさへ踏迷ひ狼狽廻る処を平内手早く片端より切捨/\何の苦もなく二十余人の盗人どもを切殺しければ此家(このや)の主は云に及ばず宿中(しゆくちう)の者共歓ひ大方ならず平内兵衛が技術(てなみ)を感じ合しが斯(かく)なる上は此死骸を如何致して宜しいからん後々の事を打案じ万一(もし)此儘捨置たらんには仲間の者共何時かは仕返しに来るべしとて評議区々(まち/\)なるを聞(きゝ)平内兵衛は主に向ひ今夜の始末を明細に土地(ところ)の代官所へ訴へ表向指揮(さしづ)に随ひ取計らひなば後/\の愁は有まじと申にぞ是に同意して早速此趣(おもふ)きを訴へければ直様役人等出張なし賊の死骸を検査(あらため)取捨方等(とりすてかたとう)を申付又平内兵衛の働作(はたらき)を感賞し事故なく検使も相済(あひすみ)ければ此家(このや)の主人(あるじ)は大いに歓び全く平内兵衛が勇猛の働きに依て厄難を遁れたりとて厚く謝礼抔(など)して尊敬(そんきやう)なしければ所の者共平内が武術は日本一などゝ評判なすにより今は日来(ひごろ)の慢心百倍し凡そ天が下広しと雖も我に及ぶ者は有まじと思ひ以後他国を廻るも益なき事をて是より江戸に至りて高名なる剣術の師匠を訪(とひ)是を打すゑて技術(てなみ)を顕し過分の禄に有付(ありつか)ん者と心を定め所の人々名残を惜むにも構はず聊か江戸に知音有を頼みにして高崎を打立一先江戸へと赴きけり
○青山主膳平内を召抱へ平内首切役を望む事
並 罪人打首の節頓智及び平内死去の事
却説(かくて)粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)は程なく江戸に到着なし本郷辺(へん)に住居を定め剣術指南の道場を開きける所(ところ)僥倖(さいはひ)に門弟等も殖(ふえ)るに随ひ或人の勧めにより妻を迎へ一子迄も挙(もう)けしが天性強気(がうき)の平内故往来(ゆきゝ)の者を打擲などする事屡々有しが其頃江戸に男侠客(をとこだて)と云事の流行し将軍家旗本の中(うち)にも大小神祇組(しんぎぐみ)又は白柄組(しらつかぐみ)などあり町家(ちやうか)にも同く侠客(をとこだて)流行して其中(そのうち)には浪人なども入交(いりまじ)り居(をる)ゆゑ平内も盛り場等(とう)人の群集(くんじゆ)する土地へ出(いで)ては弱きを助け強きを挫きて男を磨きけるに付(つき)自然と人々も尊敬(そんきやう)成して其名最も高く聞えしを青山主膳は疾くも聞込役柄成れば召抱て役に立事も有べしと思ひ自身に粂の宅に到り礼を厚くして懇望(こんまう)成せしに平内には素より小碌(せうろく)の人に抱へられるは不足なりと雖も是も後々には何かの都合に宜しからんと早速に承知せしかば青山の歓悦(よろこ)び限りなく過分の碌を与へ用人並を申付しに同気相求(どうきあいもと)むる主従の縁にや彼(かれ)がする事なす事悉皆(みな)心に適ひしかば青山は倍々(ます/\)不仁(ふじん)の行ひ募り日々平内を対手(あいて)に酒宴を開き又は罪人を責させるを此上(こよ)なき娯楽(たのしみ)と成(なせ)しが或日平内には死罪の者の首切役を懇望(こんまう)しけるに主人主膳是を聞(きゝ)彼が強気(がうき)にては必ず手際も宜しからんと之を許せしが是ぞ首切役の最初(はじめ)なり夫(それ)より伝はりて山田浅右衛門と云者代々其役を勤(つとむ)ると雖も其根本(もと)を訪ぬれば主膳の勤役(きんやくちう)に其役の人を極(きめ)しと云又粂の平内兵衛が千人塚とて罪人の首を千切[た]る故役中(やくちう)に二度迄塚を建し事あり山田浅右衛門も麻布の善福寺に千人塚を建たるは前にも云如く諸人の知る処にして今に存せり然るに粂の平内は或時大勢の死罪人を牢屋の前に居並(すゑなら)べ自ら傍へ立寄(たちより)先最初(まづさいしよ)の一人を切らんとする時罪人は此方(こなた)に向ひ我只今首を切られなば向ふの草へ喰付て見せんと云しに頓(やが)て首が落(おつ)ると其儘言葉に違(たが)はず遥か彼方の草にぞ喰付ける次の死罪人我は那(あ)の石に喰付(くひつか)んと云しに是も同じく前の如く石に喰付たり扨(さて)其次の一人(にん)平内を見て我は切手(きりて)の粂殿に喰付(くひつく)べしと云を聞(きゝ)平内も流石に気味悪く思ひしかども人の見る目も恥ければ屹度(きつと)意(こゝろ)に思案して罪人に向ひ汝(おのれ)今が最期なり覚悟すべしと云(いへ)ば如何にも心得たり頓(やが)て汝(なんぢ)に喰付て見せんと然(さ)も怨めしき顔色にて一念の凝る所をエイト云様(いひさま)刀の峯打(みねうち)になせしかば罪人是はと振向く処を気を抜(ぬき)て何の苦もなく首を打落したり彼(かの)死罪人は張詰(はりつめ)し気も峯打に拍子抜せし所を打落しければ罪人の一念も届かざりしとなり一座の人々其頓智を感じて評判最(もつ)とも高かりけるが夫よりして平内兵衛不図煩ひ付(つき)日々鬱々として居たりけるが小雨の降る日などは数多の首ども眼前(めさき)に顕(あら)はれ粂殿迎ひに参りしぞや率々(いざ/\)早く来(きた)らるべしと云ながら平内に飛蒐(とびかゝ)らんと成(なし)けるを平内臆せず刀おつ取切払へば忽地(たちまち)消て跡もなく白刃(しらは)を鞘に納むれば又顕出(あらは)れて驚かす事其後は昼夜の別(わか)ちなく首の数は漸次(しだい)に増(まし)て或は怨み又は罵り粂殿にははや命数尽たり夫故(それゆゑ)我々打揃ひて迎へに参りしなりいざ倶々(とも/゛\)来れと飛付て手取足取責られしに流石の平内も身体疲労(つか)れ日々に衰弱なしアレ囂(かまび)すや堪難(たへがた)やと狂ひ廻れど彼(か)の首は家内の者に見えずして唯平内の眼前(めさき)を放(はな)れず悶え苦しむ有様を見て人々種々に療養を加へしかども毫(すこし)も効験(しるし)の無くソレ其首を捨よソレ切払へと罵り後には刀を引抜狂ひ廻りけるに付(つき)家内の心配大方成ず終(つひ)には止(やむ)を得ず平内の身体(からだ)に縄をかけ罪人の如く捕縛置(いましめおき)しかば是よりして平内は尚々大声を発して詈(のゝし)り騒ぐ事昼夜絶(たゆ)る間なく汝等大罪人で有ながら卑怯にも我を怨恨(うらみ)斯(かく)苦しむるは何事ぞ其身の自業自得なり未練者めと詈(のゝし)りつゝソレ首打と叫びける故皆(みな)人恐怖(おそれ)て側(そば)へ寄付者なく且は世間へ遠慮も有ば昼も戸障子を締切大概(およそ)百日有余(あまり)苦痛なし終には声も枯切只手足を?く耳なりしが皮肉も摩擦切(こすりきれ)て海老を茹たる如く赤肌に爛れ上(あが)り狂ひ死(じに)にぞ死(し)したりける斯(かゝ)りし程に妻子(つまこ)の歎きは云(いふ)も更なり人々も気の毒に思ひ跡念頃(ねんごろ)に弔ひて七日/\の供養法事も怠りなく執行(とりおこな)ひけるが四十九日に至りし夜(よ)妻の枕辺(まくらべ)に平内来り我生涯の積悪不仁(せきあくふじん)の罪重りて地獄の呵責に寸暇(いとま)なし然(しか)れば其業消滅の為我像を石に彫刻(ほら)せ人足(ひとあし)の繁(しげ)き場所(ところ)へ建置(たておき)て万億の人に曝し呉(くれ)よ然(さ)すれば罪も少しは消滅(めつ)し未来の為にも成らんかといふかと思へば影消て更行(ふけゆく)鐘ぞ聞えける扨は夢にて有しかと妻は此事打案じ人に語るも恥(はづ)かしく一日(ひとひ)/\と過(すぐ)る中(うち)夜毎(よごと)/\の夢の告(つげ)に止事(やむこと)を得ず子息(せがれ)を始め人々いも相談なし平内兵衛(へいないびやうゑ)の石像を彫刻(ほら)せ人足(ひとあし)多きは浅草金龍山(あさくさきんりうざん)なる観世音の境内に超所(こすところ)なしとて百ケ日目に濡仏(ぬれほとけ)を建立して露霜にうたせ未来の苦患(くげん)を助けんと弁天山の近傍(ほとり)に是を建たりけり其後何者が云出(いひいで)けん此濡仏に利益(りやく)有とて人足の絶ざりければ境内の茶店(ちやゝ)揚弓店(やうきうみせ)の婦女共(をんなども)など此粂の平内様へ願へば何事にても叶ふとて尊敬(そんきやう)せし余り小き祠を立て安置しける故愈々市中に評判高く成(なり)信仰人(しんかうにん)は倍々(ます/\)増殖(ふゑ)て其仏力(ぶつりき)を授け給へば立身出世奉公望(ほうこうのぞみ)主従和合(しゆう/゛\わがふ)縁結び又は恋路の取持(とりもち)中にも遊女芸者等(ら)客縁は勿論(もちろん)年明情郎(ねんあけよきひと)に添(そは)るゝとか或ひは金銀の貸借(かしかり)万端(よろづ)の願ひ一ツとして成就せざるはなく殊に一筆(ひとふで)しめしまゐらせ候又は一筆啓上などゝ己(おのれ)/\が祈願(ねぎごと)を文(ふみ)認(したゝ)め捧ぐれば利益必らず著明(いちじ[ろ])しとて祠の中へ投入る手前勝手も多かりけり然るに其頃の事なりしか神田紺屋町に仕入の染物を渡世(とせい)になし相澤屋亀右衛門とて近隣に双(なら)びなき豪家(がうか)にして職人ども日々ニ三十人づゝ立働き男女(なんによ)の奉公人も大勢召使ひ其一家(いつけ)豊に生計(くら)せしが一人の娘有名をお染と呼年は二八の花盛り人の目に立(たつ)愛敬(あいきやう)に一しほ両親(ふたおや)も愛(いつく)しみ深く此隣家(このとなり)に岩国屋半四郎と云紙問屋あり是も福有(ふくいう)の大商人(おほあきんど)にて其家に二人の男子有(なんしあり)惣領を美之助(みのすけ)と呼次男を政次郎と云(いふ)生質肌目細(うまれつきゝめこま)かにして色白く親に勝れし美男なりとの評判なりしが彼娘(かのむすめ)お染は何時しか美之助を見染(みそめ)て恋慕(こひしたひ)けれ共互ひに大家(たいけ)の事故内外(うちと)の人目も繁く言寄間(いひよるひま)も有ざれば心の中(うち)に思ふ耳(のみ)にて日夜胸を焦し居たりしに一日(あるひ)下女共寄集り此頃世間に風聞高(とりさたゝか)き浅草の粂の平内様は其利益著明(あらたか)にして何事も叶はぬと云事なく殊に恋路の取持は速かに叶ふと云噂話しをなし居たるを聞(きゝ)て娘お染は密かに悦喜(よろこび)其翌日母(はゝ)に打向ひア[ノ]浅草の観音様へ百日参りをなせば御両親様を始め家内安全家繁昌し又好縁(またよきえん)をも結び一生夫に見限られぬとか云事を何かの本にて見し事あり何卒(どうぞ)お参詣(まゐり)致したしと強(しひ)ての望みに素より愛子(あいし)の立願故父にも斯(かく)と告(つげ)けるに直(たゞ)ちに許しの出(いで)たるにぞ日頃気に入の下女を招き密(ひそか)に心を打明(うちあか)し倶(とも)に談合(かたらひ)ながら文(ふみ)細々(こま/゛\)と書認(したゝ)め下女丁稚を召連て浅草寺(あさくさでら)へぞ急ぎける折柄其日は十八日の縁日にて参詣人も群集(くんじゆ)するに二人は観音堂を忽(そこ)/\に拝み直様(すぐさま)粂の祠に到り彼(か)の文を捧げて一心不乱に祈願(きぐわん)を籠夫より日々に通ひしが十七日目(ひとなぬかめ)の日(ひ)例(いつも)の如く懇情(ねんごろ)に拝み居たる傍らより供女(ともをんな)が袂を引故何事やらんと振向見れば今も今とて恋慕ふ心の丈を念願(ねんじ)たる彼の美之助が此方(こなた)を指て来るにぞ余りの事の嬉しさに胸轟きて忙然と顔打眺り居たりしが美之助は傍に立寄是はお隣の娘子(むすめご)ひよんな所でお目に懸(かゝ)りました見れば忍びの御参詣而(して)粂さまへのお願は荒増(あらまし)お察し申ましたが世の中にはお羨ましいお人もあるものお楽しみでござりますと云に娘は顔赤らめ如何にも恥らふ有様故彼(かの)美之助は如才なく傍辺(かはへ)の下女に声を掛(かけ)最早(もはや)御支度時分なり奥山を御案内ながらお供を致して参りませうと言(いは)れて嬉しく恥かしく間の悪さうなお染の素振りに下女は傍(そば)から急立(せきたつ)て丁度好お道連サア/\お供と云ふのを機会(しほ)に彼方此方(あちこち)と奥山を見巡(みまは)り其頃名高き菜飯茶屋(なめしちやゝ)へぞ入(いり)にける其後相沢屋の娘は日々浅草へ参詣するに随(したが)ひて顔色(がんしよく)漸次(しだい)に青ざめ何(なに)となく様子も平常(つね)に変りしかば母は大いに案じ供の下女に段々様子を尋ぬれ共最初の程は只管(ひたすら)に押隠して云ざりが猶も種々に問詰られ詮方尽て有の儘少しも隠さず説話(はなし)ければ母親は大いに驚き如何に深く云交(いひかは)すとも一人娘の事故他家へ遣(やる)事も成難く又隣家の子息(むすこ)も跡取の事なれば此方(こなた)へも呉まじ然(さ)すれば互に始終の為ならず然(さり)とて此事父に説話(はな)せば嘸(さぞ)や立腹する成(なら)んと千々(ちゞ)に心を痛めしが年老し手代を招き内々事の始末を言含め隣家(となり)の両親へ密に説話(はなさ)せけるに岩国屋にては此事を聞(きゝ)て以ての外に驚き当家の惣領息子は先般(さきごろ)近所の火事の時踏抜(ふみぬき)をなし凡そ一ヶ月も跡より平臥居(ふせりをり)今に座敷の内さへも歩行兼(あるきかね)る体(てい)なれば勿々(なか/\)浅草抔(など)とは思ひも寄らぬお説話(はなし)なり然し念の為当人を糺すべしとて子息(むすこ)を呼寄せ此趣旨(このおもふき)を申聞(きけ)れば決して然様(さやう)の覚えはなしとの答故右の事情(ことがら)を挨拶しければ手代は早々(そう/\)立帰り母親へ斯(かく)と告るにより母は愈々不審に思ひ供せし下婢(をんな)に再び問(とへ)ど全く前の話に相違なしとの事に付其翌日は供の者にも何か密々(みつ/\)言含め娘に知らせず母親は番頭一人を召連て見え隠れに跡をつけて行とも知らぬ彼娘(かのむすめ)お染は雷神門(かみなりもん)へ至る頃(ころ)例(いつも)の息子と出逢(いであふ)て連立行(つれだちゆき)しは紛ふ方(かた)なき隣家(となり)の美之助なれば母は猶も何処(いづく)へ行かと跡を慕ひ行(ゆき)しに粂の祠へ参詣なし夫より奥山なる彼の菜飯茶屋へ立入ける弥々(いよ/\)怪しく思ひしなれど其日は確乎(しか)と見届し故家に帰りて只一人熟々(つく/゛\)と思ひ廻すに那然確実(あれほどたしか)の證拠あるを憎(につ)くき隣家(となり)の挨拶かな最(も)一度明日付行(つけゆき)て二人共に捕来(きた)り親子三人(みたり)の面(つら)の皮を剥て腹癒(はらいせ)成(なす)べしと余に腹の立しまゝ我娘の恥辱(はぢ)と成にも心付ず足ずも成(なし)て翌日を待兼居たるも女気(をんなぎ)の最愚(いとおろか)なる事共なり
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ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)
ラベル:
Diplomacy(駆け引き)
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怪談
,
粂の平内
,
皿屋敷
,
小泉八雲
2017年8月10日木曜日
粂の平内 (豪傑小説) 百十三 百十四
粂の平内 雨柳子(三宅青軒) 敬文館 1905 明38.3
(百十三)
庭には荒菰(あらごも)が敷て、其菰の上へ赤城無敵齋(あかぎむてきさい)から千田軍四郎 狼の助五郎と次第を立てゝ、縛(しば)つたまゝで坐らせ、側に水を湛へた手桶を置き、夫れに柄杓が添へてある。
武藤金吾と本間廉蔵との二少年は、平内の斬り方を見ようと言ふので付て居る。春の夜ながら月は物凄く三人の顔を照す。いかにも忌(いや)な光景だ。
無敵齋は悔しさうに平内(へいない)を睨むで、「どうせ死ぬる命だから、何となつても構はないけれど、併(しか)し武士たるものを縛り首にするとは酷い。死でも此怨みは覚えて居る」と怒ると、狼の助五郎は歯軋りして、「わツしもさうだ、コウ、平内、人に怨みがあるものか無いものか、よく覚えて居やアがれ」と罵る。平内は打笑ふて、「其方共は何処まで未練な奴ぢや、此後に及び尚世迷言を申すとは笑止の至り、早く念仏でも唱へて往生するが好いぞ。此平内は其方等に怨まれたとて、何の何の」と言ひながら、予(かね)て嫉刃(ねたば)を合(あは)して置た無銘の利刃(わざもの)すらりと抜て、先づ助五郎の後へ廻る。
助五郎「ウム、おれから斬るのだな、好し、人の執念はどんなものか、其證拠に、向ふの庭石へ咬(かぢ)り着て見せる」と声を顫(ふる)はせる。千田軍四郎は之れを聞て、「助五郎、其方(そち)が庭石へ咬り着くなら、おれはあの桜の樹へ咬り着てやる」と言ふ。無敵齋「おれは振り返つて、此平内の喉笛へ咬り着かねば置ぬ」と叫ぶを、強気(ごうき)の平内何の頓着も無く「詰らぬ世迷言を言はずに覚悟致せ」と言ふ其声もまだ終らぬに、ぱつと濡手拭を振るやうな音がしたかと思へば、助五郎の首は胴から離れて向ふへ飛ぶ。血は泉の如くに上る。
金吾と廉蔵(れんざう)とが「アツ」と叫ぶに気が付て見ると、これは不思議、助五郎の首は、今言つた通りに飛で往(い)つて、庭石の角へ緊(しつ)かりと咬り着た。さすがの平内も大いに驚いて覚えず立竦(たちすく)みになつて、金吾が其血刀(ちがたな)へ水をかけて居るのも知らなかつた。
軍四郎「助五郎、出来(でか)した、今度はおれの番だな」と言ふところを、又ぱつと斬ると、首は勢ひよく飛で、桜の樹へがツしり咬り着く。金吾は吃驚(びつくり)して、「先生、御用心遊ばしませ」と小声で言ふ。廉蔵は声を顫(ふる)はして、「お兄い様、無敵齋の首はどんな事を致すか分りません」と怖れる。
「ウム、ウム」と点頭(うなづき)ながら、平内は血を洗ふた刀を提(ひつさ)げて無敵齋の後ろへ廻る。無敵齋は、「助五郎も軍四郎もよくした。平内、覚悟を仕(し)ろ」と捻向(ねぢむ)く首をぴたりと刀の刃棟(はむね)で撃(うつ)て、其気をぬいて、今度はばつと斬離す。之れに欺(だま)されて、無敵齋の首は前へ落たが、併し此方(こち)らを向て、二度(たび)三度瞬きして、いかにも無念と言つたやうに、凄い眼をして睨むで居る。
廉蔵「怖ろしい執念で御坐りますな」、 金吾「何とした未練な奴で御坐りませう」と言ひながら、平内の刀へ水をかける。平内は其刀の血(のり)を拭うて、「イヤ、天晴の斬味、無銘ながら確かに名作ぢや」と鞘へ納めて、偖て軍四郎と助五郎の首を査(あらた)めて見たが、これも眼を見張たまゝで、樹と石と咬り着て、丸で生きて居るやうである。平内が刀の棟撃(みねうち)で一度欺して其の気をぬか無(なか)つたなら、無敵齋の首は捻向て平内へ飛着たであらう。平内の頓智も豪(えら)いが、併し人間の執念と言ふものも怖ろしい。
下僕(しもべ)を呼で首と死骸の始末をさせ、強気(ごうき)の平内一向平気で其夜(よ)は寝た。ところで色々の夢を見る。幾人幾十人を大根や菜ツ葉を切るやうにした是までとは違(ちが)うて、何やら怪しい夢に魘(おそ)はるゝ、我ながら不思議と我を疑ふて、度々起てお里に訝かられたとは妙である。
(百十四)
何やら合点は往ぬが、無敵齋 軍四郎 助五郎の執念深いのに忌(いや)な気持のして、平内は是までに無い菩提心を起し、此翌日三人の死骸を、密かに長兵衛の寺の源空寺へ葬つた。
其夕暮に托鉢僧が門に立て、鉦を敲(たゝ)いて念仏を唱へて居るに、平内は之れを呼(よば)しめ、三人の為めに供養をさせようとすると、此僧は辞退して、「わたくしは真の乞食坊主でお経などは存知じませず、迚(とて)もこなた方のやうな御大家のお座敷へ上れるものでは御座りませぬ。賤しい汚れた身で恐れ入りまする」と言ふ。妙な坊主と、平内は好奇心から出て見ると、年頃四十ばかりの実の物凄いやうな大男で、筋骨逞ましく眼の玉据つて、ひと目で天晴な武術者と言ふことが分る。
仔細あるらしい坊主と、平内は強て呼入れ、経文読誦は兎も角斎(とき)でも振舞ふからと言ふので座敷へ請(しやう)じて、「某は当家の主人(あるじ)平内であるが、見受けるところ御坊は本(もと)武士と察せらるゝ、いかなる訳のあつて、斯く出家せられたか」と尋ねると、「天下に誰れ知らぬもの無い平内様の御眼力恐れ入て御座りまする、いかにもわたくしは武士の端くれ、剣術槍術なども少々は学びましたが、イヤ、血気に任せて余計な罪を作つた祟りで、種々様々の禍に罹り、一念発起の果が斯(こ)んな姿、鬼の念仏とはわたくしの事で御座りませう」と言ふ不思議さ、平内は愈ゝ怪しく思ふて、「はて、妙な事を承はる、お差支へ無くば其発起の次第をお話し下されたい、某も此頃些(ち)と考へることが御座るから」と、やがて斎(とき)を進て燈火(あかり)をつけて、又余儀もなく問ふた。
平内の真面目な問ひに動かされたか、坊主は珠数を爪繰(つまぐ)りながら、「平内様ともあらう御方(おんかた)からのお尋ねとは恐れ入た事で御座りまする、わたくしの懺悔お聞下され何を秘(かく)しませう、わたくしは肥後熊本の士(さむらひ)で、上月(かうづき)進十郎と申すもの、幼年から好む武術の為め、随分多くの人を悩まし、自分の伎倆(うで)の他人に勝るを鼻にかけて、高慢我慢の果が、喧嘩口論(けんくわこうろん)決闘(はたしあひ)、人を殺すことの面白くなり、自ら請(こ)ふて、人の忌(いや)がる劊手(きりて)を劊受(ひきう)け、打首になる科人は皆わたくしが斬りました、ハイ、二十歳(さい)の頃から昨年の秋の四十歳まで、二十年の長の年月千人に余る首を斬た報いは、怖ろしや妻に祟り子に祟り思ひも寄らぬ非業の最期を遂げまして、わたくしさへも折にふれては怨霊に苦しめられる気味の悪さ、つく/゛\身の罪が怖ろしくなりましたので、暇(いとま)を乞ふて俄かの出家、斯(か)うして乞食坊主になり下り、諸国を行脚して罪障消滅を祈るので御座りまする」と言つて、後は念仏を唱へて居る。
「ウム」と平内も胸に答へて、「成程御殊勝なことで御座るが、併(しか)し御坊罪あるものゝ其罪に依て斬殺さるゝは当り前、夫れで、人を怨むで其人に祟るなどゝ、実に理屈の分らぬ次第」と言ふを、進十郎坊は、「其御不審、一応は御尤もに伺ひまする、わたくしも若気の血気から左様に存じてこそ二十年も面白がつて劊手(きりて)を致したので御座りまするが、打首にせらるゝ程の悪人、違拗(ねぢけ)た心は息の絶える最期まで改まらず、自分の罪を悟るどころか只もう役人を怨み劊手(きりて)を怨み、此劊手さへ無ければ自分は斬られずに済むものゝやうに思ひ僻むで、斬らるゝ刹那の一念凝(こつ)て、こゝに不思議な作用(はたらき)をなすものと存じられまする。論より證拠、人を多く殺したものに其終りを善くしたものは御座りませぬ」としみ/゛\言ふ。
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ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)
(百十三)
庭には荒菰(あらごも)が敷て、其菰の上へ赤城無敵齋(あかぎむてきさい)から千田軍四郎 狼の助五郎と次第を立てゝ、縛(しば)つたまゝで坐らせ、側に水を湛へた手桶を置き、夫れに柄杓が添へてある。
武藤金吾と本間廉蔵との二少年は、平内の斬り方を見ようと言ふので付て居る。春の夜ながら月は物凄く三人の顔を照す。いかにも忌(いや)な光景だ。
無敵齋は悔しさうに平内(へいない)を睨むで、「どうせ死ぬる命だから、何となつても構はないけれど、併(しか)し武士たるものを縛り首にするとは酷い。死でも此怨みは覚えて居る」と怒ると、狼の助五郎は歯軋りして、「わツしもさうだ、コウ、平内、人に怨みがあるものか無いものか、よく覚えて居やアがれ」と罵る。平内は打笑ふて、「其方共は何処まで未練な奴ぢや、此後に及び尚世迷言を申すとは笑止の至り、早く念仏でも唱へて往生するが好いぞ。此平内は其方等に怨まれたとて、何の何の」と言ひながら、予(かね)て嫉刃(ねたば)を合(あは)して置た無銘の利刃(わざもの)すらりと抜て、先づ助五郎の後へ廻る。
助五郎「ウム、おれから斬るのだな、好し、人の執念はどんなものか、其證拠に、向ふの庭石へ咬(かぢ)り着て見せる」と声を顫(ふる)はせる。千田軍四郎は之れを聞て、「助五郎、其方(そち)が庭石へ咬り着くなら、おれはあの桜の樹へ咬り着てやる」と言ふ。無敵齋「おれは振り返つて、此平内の喉笛へ咬り着かねば置ぬ」と叫ぶを、強気(ごうき)の平内何の頓着も無く「詰らぬ世迷言を言はずに覚悟致せ」と言ふ其声もまだ終らぬに、ぱつと濡手拭を振るやうな音がしたかと思へば、助五郎の首は胴から離れて向ふへ飛ぶ。血は泉の如くに上る。
金吾と廉蔵(れんざう)とが「アツ」と叫ぶに気が付て見ると、これは不思議、助五郎の首は、今言つた通りに飛で往(い)つて、庭石の角へ緊(しつ)かりと咬り着た。さすがの平内も大いに驚いて覚えず立竦(たちすく)みになつて、金吾が其血刀(ちがたな)へ水をかけて居るのも知らなかつた。
軍四郎「助五郎、出来(でか)した、今度はおれの番だな」と言ふところを、又ぱつと斬ると、首は勢ひよく飛で、桜の樹へがツしり咬り着く。金吾は吃驚(びつくり)して、「先生、御用心遊ばしませ」と小声で言ふ。廉蔵は声を顫(ふる)はして、「お兄い様、無敵齋の首はどんな事を致すか分りません」と怖れる。
「ウム、ウム」と点頭(うなづき)ながら、平内は血を洗ふた刀を提(ひつさ)げて無敵齋の後ろへ廻る。無敵齋は、「助五郎も軍四郎もよくした。平内、覚悟を仕(し)ろ」と捻向(ねぢむ)く首をぴたりと刀の刃棟(はむね)で撃(うつ)て、其気をぬいて、今度はばつと斬離す。之れに欺(だま)されて、無敵齋の首は前へ落たが、併し此方(こち)らを向て、二度(たび)三度瞬きして、いかにも無念と言つたやうに、凄い眼をして睨むで居る。
廉蔵「怖ろしい執念で御坐りますな」、 金吾「何とした未練な奴で御坐りませう」と言ひながら、平内の刀へ水をかける。平内は其刀の血(のり)を拭うて、「イヤ、天晴の斬味、無銘ながら確かに名作ぢや」と鞘へ納めて、偖て軍四郎と助五郎の首を査(あらた)めて見たが、これも眼を見張たまゝで、樹と石と咬り着て、丸で生きて居るやうである。平内が刀の棟撃(みねうち)で一度欺して其の気をぬか無(なか)つたなら、無敵齋の首は捻向て平内へ飛着たであらう。平内の頓智も豪(えら)いが、併し人間の執念と言ふものも怖ろしい。
下僕(しもべ)を呼で首と死骸の始末をさせ、強気(ごうき)の平内一向平気で其夜(よ)は寝た。ところで色々の夢を見る。幾人幾十人を大根や菜ツ葉を切るやうにした是までとは違(ちが)うて、何やら怪しい夢に魘(おそ)はるゝ、我ながら不思議と我を疑ふて、度々起てお里に訝かられたとは妙である。
(百十四)
何やら合点は往ぬが、無敵齋 軍四郎 助五郎の執念深いのに忌(いや)な気持のして、平内は是までに無い菩提心を起し、此翌日三人の死骸を、密かに長兵衛の寺の源空寺へ葬つた。
其夕暮に托鉢僧が門に立て、鉦を敲(たゝ)いて念仏を唱へて居るに、平内は之れを呼(よば)しめ、三人の為めに供養をさせようとすると、此僧は辞退して、「わたくしは真の乞食坊主でお経などは存知じませず、迚(とて)もこなた方のやうな御大家のお座敷へ上れるものでは御座りませぬ。賤しい汚れた身で恐れ入りまする」と言ふ。妙な坊主と、平内は好奇心から出て見ると、年頃四十ばかりの実の物凄いやうな大男で、筋骨逞ましく眼の玉据つて、ひと目で天晴な武術者と言ふことが分る。
仔細あるらしい坊主と、平内は強て呼入れ、経文読誦は兎も角斎(とき)でも振舞ふからと言ふので座敷へ請(しやう)じて、「某は当家の主人(あるじ)平内であるが、見受けるところ御坊は本(もと)武士と察せらるゝ、いかなる訳のあつて、斯く出家せられたか」と尋ねると、「天下に誰れ知らぬもの無い平内様の御眼力恐れ入て御座りまする、いかにもわたくしは武士の端くれ、剣術槍術なども少々は学びましたが、イヤ、血気に任せて余計な罪を作つた祟りで、種々様々の禍に罹り、一念発起の果が斯(こ)んな姿、鬼の念仏とはわたくしの事で御座りませう」と言ふ不思議さ、平内は愈ゝ怪しく思ふて、「はて、妙な事を承はる、お差支へ無くば其発起の次第をお話し下されたい、某も此頃些(ち)と考へることが御座るから」と、やがて斎(とき)を進て燈火(あかり)をつけて、又余儀もなく問ふた。
平内の真面目な問ひに動かされたか、坊主は珠数を爪繰(つまぐ)りながら、「平内様ともあらう御方(おんかた)からのお尋ねとは恐れ入た事で御座りまする、わたくしの懺悔お聞下され何を秘(かく)しませう、わたくしは肥後熊本の士(さむらひ)で、上月(かうづき)進十郎と申すもの、幼年から好む武術の為め、随分多くの人を悩まし、自分の伎倆(うで)の他人に勝るを鼻にかけて、高慢我慢の果が、喧嘩口論(けんくわこうろん)決闘(はたしあひ)、人を殺すことの面白くなり、自ら請(こ)ふて、人の忌(いや)がる劊手(きりて)を劊受(ひきう)け、打首になる科人は皆わたくしが斬りました、ハイ、二十歳(さい)の頃から昨年の秋の四十歳まで、二十年の長の年月千人に余る首を斬た報いは、怖ろしや妻に祟り子に祟り思ひも寄らぬ非業の最期を遂げまして、わたくしさへも折にふれては怨霊に苦しめられる気味の悪さ、つく/゛\身の罪が怖ろしくなりましたので、暇(いとま)を乞ふて俄かの出家、斯(か)うして乞食坊主になり下り、諸国を行脚して罪障消滅を祈るので御座りまする」と言つて、後は念仏を唱へて居る。
「ウム」と平内も胸に答へて、「成程御殊勝なことで御座るが、併(しか)し御坊罪あるものゝ其罪に依て斬殺さるゝは当り前、夫れで、人を怨むで其人に祟るなどゝ、実に理屈の分らぬ次第」と言ふを、進十郎坊は、「其御不審、一応は御尤もに伺ひまする、わたくしも若気の血気から左様に存じてこそ二十年も面白がつて劊手(きりて)を致したので御座りまするが、打首にせらるゝ程の悪人、違拗(ねぢけ)た心は息の絶える最期まで改まらず、自分の罪を悟るどころか只もう役人を怨み劊手(きりて)を怨み、此劊手さへ無ければ自分は斬られずに済むものゝやうに思ひ僻むで、斬らるゝ刹那の一念凝(こつ)て、こゝに不思議な作用(はたらき)をなすものと存じられまする。論より證拠、人を多く殺したものに其終りを善くしたものは御座りませぬ」としみ/゛\言ふ。
国家図書館デジタルコレクション
ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)
ラベル:
Diplomacy(駆け引き)
,
怪談
,
粂の平内
,
皿屋敷
,
小泉八雲
2017年8月9日水曜日
新撰 皿屋鋪弁疑録 巻之弐 青山主膳更屋敷拝領之事 並同人盗賊改御役之節粂平内兵衛を召抱御事
見覧を希のみ
宝暦八
戊寅年陽春 武江隠士
馬文耕選
新撰 皿屋鋪弁疑録
巻之弐
青山主膳更屋敷拝領之事
並同人盗賊改御役之節粂平内兵衛を召抱御事
然程に番町天樹院殿御悪行日ゝ夜ゝに止事なく
件の竹尾といへる女も終に命をと[り][て]花井か死體を
捨し井戸のうちへいつしよに打込捨給ふ其後寛永の初
天樹院殿薨去なされしかは右御守殿をこぼち玉ひて空
地の更屋敷となる其屋敷に件の井戸これあるに小雨降
夜半になり給へは右の井戸より青く光る日燃立消てはもへ
あかる事度/\なり往来の人是を見て大きにおとろき
後には誰しらぬ者もなく妖怪屋敷といひ傳へ天樹院殿
29
御守殿跡化粧のもの住居なりた[り]て牛込の内はん町の
結構なる屋舗なりといへとも誰有て拝領せんと申人も
なかりし[が]段ゝ江戸明地等も少くなりけるに付武家の拝領
屋敷これなきにつきて御旗本衆の内にて三人分に
右屋敷下さ[れ]けれとも彼井戸の有し近所の何れも
頂戴する人なかりけり後秊井戸も潰れて家居
たち込しにしたかひて化粧のさたも遠さかりし[所]
その頃道三河岸を持て居られし御旗本衆屋敷
御用に付召上られ松平肥後守殿下さ[れ]しに付道三
河岸に居られ候御旗本衆へ代地所/\にて下され
其御旗本衆の内に御先手[組]勤められて千五百石
青山主膳といへる人有けるに件の御守殿跡の古井の
埋し近所七百坪程くだされける青山爰を拝領して頓て
普請にとりかゝり[て]成就して親妻等を引具し一家
中不残引越扨又屋敷うち家中用水のため井戸を
[堀]らせけりこの井戸こそ後に菊を殺し入し井戸也
今に菊か井戸と云傳ふ井は是なり誠に如何成因縁にや
[以]前屋敷の有し天樹院殿にてさら屋しきの名をこふ
むり竹尾と花井をころし井戸へ埋め後年
此屋敷之主又も井戸へ入て末世に皿屋敷と名を上し
こそ不思議の因果のなす所なるべし斯て青山主膳は
其頃盗賊改め奉行をこふむり此青山と云人至て
30
不仁不義の人にて大酒を好て下をいたはる心なく悪しく
奉行改人かりそめにも不仁の行ひある時は町人百姓なげき
いくばくぞや誠に公義へ対して不忠至極といふへし
されは青山主膳は組中与力同心に急度申付けるは御
奉公随一の事なれは罪人多く召し捕候へと呉ゝ申付る
なり凡天下には罪人無きを以て仁政の所とすべきに
青山殿か申付如何成天盲千万なる事そかし夫ゆへに
組子の人ゝは夜廻り等いたし[明]ては壱人なり共罪人
をとらへ行時は青山殿殊之外機嫌よ[く]酒をのませ我も
楽しみまた壱人もとらへずに縄付をも連ゆかざる
けれは以之外機嫌あしく盗賊火付の多く
有べきに各/\にふ精故とらへ来らず大方夜回りはせず
して宵より休みめされつらん抔と呵りし故組呼は頭の
機嫌にいらんとて後には咎なき者もあやしきものとて
無態に縄かけつれゆくは殊の外悦ひ捕らへそこなひは
少しもくるしからすとの上意をもつて相勤る所
なればとて咎なき者を多く牢内へ入置其者をいろ/\と
せめたゝき是を肴として大酒を好みける也扨其後
浪人ものに久米平内兵衛と云者有今浅草に石像
にして久米平内兵衛像有この者は剣術取手上手
にて日本廻国武者修行せし手業の有もの也
とて左様の者こそ召抱へ置あるへしとて彼平内
31
兵衛を召しかゝへて用人格にてさし置けるこの平内は
腕骨達者にて力量勝れ太刀打の手内勝れたれば
御仕置の罪人打首のもの手前好み願ひて切申度由
奉て申ける故に青山大に感し誠に予か家来程有[て停]
勇気の願ひ尤千万也某新身をこのめば其こゝ
ろみの為にも成とて重宝成望の通り以来は死罪の者の
太刀取にせんとて重ねて公義御仕置人の人切いたし役に
この久米平内兵衛を致されせり是は死罪人斬罪人を切る
は非人の役なりしに青山主膳のせつ初て人切といふ
者出来て当御代まて段/\其役これ有近世山田
浅右衛門の役にて名も高かりしそかし根元久米
平内兵衛也青山殿御役之内に平内兵衛は千人塚弐度[建]たり[と]
云千人塚は仕置人の首千人切て其印の塚を供養するとなり
夫を弐度建て其後も数人を切たると也其頃は武家末剛
卒にて大小の神祇組とて男達流行せし頃にて平内兵衛も
大小の神祇組の中に列して辻切抔も夥敷(オビタゝシク)人を殺す
事を何ともおもはぬ不敵ものなり
近来山田浅右衛門多くの人をきりて千人塚を麻布善福寺へ
建たり今の世の人の見る所明ら[け]し今は古人也この
山田浅右衛門も死にきはりんじうの節山田か枕もとへ多くの
首あらわれ出しと云何程公儀の役なりと云共むくひ
なきにしもあらず
32
此平内兵衛或時大勢の死罪人有し時牢屋にて打首する時罪
人共居并て申は我今首をきらるゝに向ふの草へ喰付て[み]せんと
訇り有頓て平内切しに案の如く草へ食付て無念の程をあらはす
今壱人の云く我は向ふの大石へ食付んと云果して切に左の如くなす
今壱人は恐しくも切らは人切の粂殿の顔へ喰付んと云平内も
気味悪く此者一念にて如何にも喰付べし然れ共其一云に恐れ
止されもせず人ゝのみる所も有て平内は思案して頓て罪人に向ひ己れ
今こそさいごなれかくごせよと申けれは如何にも心得たり汝が
顔へ喰付んと一念こらせし所を出しぬいて刀のむねにて
壱ツ打ければ件の罪人是はとふりむく所をとたんの
拍子に向ふ気をぬひて切ける由へ何の苦もなく首打
落しけり此段平内が工夫の第一なりとかやケ様にいたさずば此者一念
にて顔へ喰付へくを平内か気てん働其道のかしこき事不思義
なりと世上にて沙汰しけると也主人主膳是を聞ていよ/\粂を
寵愛しけると也平内一生の悪事おびたたしく終に病死して
彼か一子の夢にひたとみへて我一生の悪事故未来の呵嘖
ひまもなく然て某か業のめつするよふに我を人立多所に其
罪をさらし生る折からの姿を石像に刻みて万億の人往来に
さらし是然らは罪もめつし未来の為にもならんと度/\
夢中に来りし故其倅これを曽みて石像をきざませ人立
の場所なれはとて浅草観音境内に是を立[ゝ]置わざ/\ぬれ
ぼとけの如く露霜にうたせて未来の罪を免とせしに
33
後には何者か是を尊敬して根元の子細弁ずして今は呉服の
茶屋とも此佛あらたなりとて大かた何にても成就するとて
信仰の余り祠を建安置しけり誠におかしき人心哉久米が
倅も夢亡像をまことゝして親の悪名を末世に知らせんと
如何にするは子は親のためにかくす直き事其中に
ありといふ聖人の教語をしらざるふ孝とみへたり
其父不義なればその子暦然の道理なるへし
34
29-34
早稲田大学図書館古典籍総合データベース
ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)
宝暦八
戊寅年陽春 武江隠士
馬文耕選
新撰 皿屋鋪弁疑録
巻之弐
青山主膳更屋敷拝領之事
並同人盗賊改御役之節粂平内兵衛を召抱御事
然程に番町天樹院殿御悪行日ゝ夜ゝに止事なく
件の竹尾といへる女も終に命をと[り][て]花井か死體を
捨し井戸のうちへいつしよに打込捨給ふ其後寛永の初
天樹院殿薨去なされしかは右御守殿をこぼち玉ひて空
地の更屋敷となる其屋敷に件の井戸これあるに小雨降
夜半になり給へは右の井戸より青く光る日燃立消てはもへ
あかる事度/\なり往来の人是を見て大きにおとろき
後には誰しらぬ者もなく妖怪屋敷といひ傳へ天樹院殿
29
御守殿跡化粧のもの住居なりた[り]て牛込の内はん町の
結構なる屋舗なりといへとも誰有て拝領せんと申人も
なかりし[が]段ゝ江戸明地等も少くなりけるに付武家の拝領
屋敷これなきにつきて御旗本衆の内にて三人分に
右屋敷下さ[れ]けれとも彼井戸の有し近所の何れも
頂戴する人なかりけり後秊井戸も潰れて家居
たち込しにしたかひて化粧のさたも遠さかりし[所]
その頃道三河岸を持て居られし御旗本衆屋敷
御用に付召上られ松平肥後守殿下さ[れ]しに付道三
河岸に居られ候御旗本衆へ代地所/\にて下され
其御旗本衆の内に御先手[組]勤められて千五百石
青山主膳といへる人有けるに件の御守殿跡の古井の
埋し近所七百坪程くだされける青山爰を拝領して頓て
普請にとりかゝり[て]成就して親妻等を引具し一家
中不残引越扨又屋敷うち家中用水のため井戸を
[堀]らせけりこの井戸こそ後に菊を殺し入し井戸也
今に菊か井戸と云傳ふ井は是なり誠に如何成因縁にや
[以]前屋敷の有し天樹院殿にてさら屋しきの名をこふ
むり竹尾と花井をころし井戸へ埋め後年
此屋敷之主又も井戸へ入て末世に皿屋敷と名を上し
こそ不思議の因果のなす所なるべし斯て青山主膳は
其頃盗賊改め奉行をこふむり此青山と云人至て
30
不仁不義の人にて大酒を好て下をいたはる心なく悪しく
奉行改人かりそめにも不仁の行ひある時は町人百姓なげき
いくばくぞや誠に公義へ対して不忠至極といふへし
されは青山主膳は組中与力同心に急度申付けるは御
奉公随一の事なれは罪人多く召し捕候へと呉ゝ申付る
なり凡天下には罪人無きを以て仁政の所とすべきに
青山殿か申付如何成天盲千万なる事そかし夫ゆへに
組子の人ゝは夜廻り等いたし[明]ては壱人なり共罪人
をとらへ行時は青山殿殊之外機嫌よ[く]酒をのませ我も
楽しみまた壱人もとらへずに縄付をも連ゆかざる
けれは以之外機嫌あしく盗賊火付の多く
有べきに各/\にふ精故とらへ来らず大方夜回りはせず
して宵より休みめされつらん抔と呵りし故組呼は頭の
機嫌にいらんとて後には咎なき者もあやしきものとて
無態に縄かけつれゆくは殊の外悦ひ捕らへそこなひは
少しもくるしからすとの上意をもつて相勤る所
なればとて咎なき者を多く牢内へ入置其者をいろ/\と
せめたゝき是を肴として大酒を好みける也扨其後
浪人ものに久米平内兵衛と云者有今浅草に石像
にして久米平内兵衛像有この者は剣術取手上手
にて日本廻国武者修行せし手業の有もの也
とて左様の者こそ召抱へ置あるへしとて彼平内
31
兵衛を召しかゝへて用人格にてさし置けるこの平内は
腕骨達者にて力量勝れ太刀打の手内勝れたれば
御仕置の罪人打首のもの手前好み願ひて切申度由
奉て申ける故に青山大に感し誠に予か家来程有[て停]
勇気の願ひ尤千万也某新身をこのめば其こゝ
ろみの為にも成とて重宝成望の通り以来は死罪の者の
太刀取にせんとて重ねて公義御仕置人の人切いたし役に
この久米平内兵衛を致されせり是は死罪人斬罪人を切る
は非人の役なりしに青山主膳のせつ初て人切といふ
者出来て当御代まて段/\其役これ有近世山田
浅右衛門の役にて名も高かりしそかし根元久米
平内兵衛也青山殿御役之内に平内兵衛は千人塚弐度[建]たり[と]
云千人塚は仕置人の首千人切て其印の塚を供養するとなり
夫を弐度建て其後も数人を切たると也其頃は武家末剛
卒にて大小の神祇組とて男達流行せし頃にて平内兵衛も
大小の神祇組の中に列して辻切抔も夥敷(オビタゝシク)人を殺す
事を何ともおもはぬ不敵ものなり
近来山田浅右衛門多くの人をきりて千人塚を麻布善福寺へ
建たり今の世の人の見る所明ら[け]し今は古人也この
山田浅右衛門も死にきはりんじうの節山田か枕もとへ多くの
首あらわれ出しと云何程公儀の役なりと云共むくひ
なきにしもあらず
32
此平内兵衛或時大勢の死罪人有し時牢屋にて打首する時罪
人共居并て申は我今首をきらるゝに向ふの草へ喰付て[み]せんと
訇り有頓て平内切しに案の如く草へ食付て無念の程をあらはす
今壱人の云く我は向ふの大石へ食付んと云果して切に左の如くなす
今壱人は恐しくも切らは人切の粂殿の顔へ喰付んと云平内も
気味悪く此者一念にて如何にも喰付べし然れ共其一云に恐れ
止されもせず人ゝのみる所も有て平内は思案して頓て罪人に向ひ己れ
今こそさいごなれかくごせよと申けれは如何にも心得たり汝が
顔へ喰付んと一念こらせし所を出しぬいて刀のむねにて
壱ツ打ければ件の罪人是はとふりむく所をとたんの
拍子に向ふ気をぬひて切ける由へ何の苦もなく首打
落しけり此段平内が工夫の第一なりとかやケ様にいたさずば此者一念
にて顔へ喰付へくを平内か気てん働其道のかしこき事不思義
なりと世上にて沙汰しけると也主人主膳是を聞ていよ/\粂を
寵愛しけると也平内一生の悪事おびたたしく終に病死して
彼か一子の夢にひたとみへて我一生の悪事故未来の呵嘖
ひまもなく然て某か業のめつするよふに我を人立多所に其
罪をさらし生る折からの姿を石像に刻みて万億の人往来に
さらし是然らは罪もめつし未来の為にもならんと度/\
夢中に来りし故其倅これを曽みて石像をきざませ人立
の場所なれはとて浅草観音境内に是を立[ゝ]置わざ/\ぬれ
ぼとけの如く露霜にうたせて未来の罪を免とせしに
33
後には何者か是を尊敬して根元の子細弁ずして今は呉服の
茶屋とも此佛あらたなりとて大かた何にても成就するとて
信仰の余り祠を建安置しけり誠におかしき人心哉久米が
倅も夢亡像をまことゝして親の悪名を末世に知らせんと
如何にするは子は親のためにかくす直き事其中に
ありといふ聖人の教語をしらざるふ孝とみへたり
其父不義なればその子暦然の道理なるへし
34
29-34
早稲田大学図書館古典籍総合データベース
ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)
ラベル:
Diplomacy(駆け引き)
,
怪談
,
粂の平内
,
皿屋敷
,
小泉八雲
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