教訓世界お伽ばなし 園部紫嬌 著 石塚松雲堂 明治44.2 1911
頓智の首斬
『ア痛いと気を変えさせ。』
むかしは一寸(ちょいと)仕(し)た罪でも首を斬られたもので、此の罪人の首を斬るために、お役人とは云えぬが、穢多の頭なぞがその役目を代々親譲りで勤めたものだ、其の役目を勤めて首斬りの名人と云われた、首斬浅右エ門(くびきりのあさえもん)と云うた男が、或る時刑場(しおきば)で両人(ふたり)の罪人を並べて首を斬った時に、一人の罪人は、
『俺が首を斬られたら、向うの砂利に喰ひ付いてやる。』と云い、又一人の罪人は『俺は首を打たれたら、大刀取(たちとり)[首を斬る人]の咽喉笛(のどぶえ)へ食らい付くからそう思え。』と、さも口惜(くや)しそうに唸りながら、浅右衛門の顔を睨んだ、スルと流石に浅右衛門、何を云うかと云う風で、別に恐いの恐しいのと云う風姿(そぶり)はなく先ず刀へ水を掛けさせ、万事式(かた)の如く仕(し)て、最初一人の首を斬ると、何(ど)うでしょう、人の一念(おもい)は恐いもので、云うた如(とお)り首斬り場の向うに敷いてある小砂利へ、罪人の首は飛んで行って喰らい付いた、観る者皆慄毛(おぞげ)を振って恐れ、此次の奴の首は浅右衛門の咽咽笛へ食い付くだろう、サア大変な事に成ったと、浅右衛門の容姿(ようす)を眼を円(まろ)く仕(し)て観て居ると、其人は少しも愕(おどろ)かず、益々沈着の体度(たいど)を示し、静に罪人の背後(うしろ)へ廻って、前の如(とお)り刀へザブリ、式(かた)の如く凡てあってヤッと云う掛声諸共、首は前へ落ちたかと思うと、最初の一大刀(ひとたち)は胸打(むなうち)で、刀(は)の無い方で首筋を打ったから、痛いと罪人が思った処へ、二度目の大刀(たち)をエイと下して、美事に首を斬ったので、ソリャこそ咽喉笛と思いの外、反ってその首は意気地もなく、コロ/\コロと転げて斬穴(きりあな)へ落ちたので、見て居る者は力が抜け、何(ど)う仕たことゝ、浅右衛門の顔を眺めた。
スルと浅右衛門が笑うて云うのに、『突然(いきなり)此奴(こやつ)の首を斬れば、前の如(とお)り、屹度(きっと)咽喉笛に食い付くに違いない、処で一度胸打をくわせ、食い付こうと思い詰めた一念を、ア痛(いた)と他へ転じさせ、其処(そこ)で俄に首を斬ると、何も思はぬ首になって、是れ此通(このとお)りコロ/\と転げるのだ。』と云ったので、流石は首斬浅右衛門程あり、時に取っての好い頓智と、見た人聴いた人々は何(いず)れも感心したそうです。
国会図書館デジタルコレクション
2017年8月20日日曜日
皿屋敷於菊之実伝 (久米平内)
皿屋敷於菊之実伝 泉竜亭是正 作 桜斎房種 画
編輯兼出版人 羽田冨次郎 明治十六年五月二十一日御届 (1883)
上之巻 (久米平内)
----されば又そのころ粂平内(くめのへいない)というものあり、元来強気(けんらいごうき)にして、剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞え高ければ、青山一人おもへらく「我が盗賊掛りにて召し捕ることを旨(むね)とせば、斯くなる者を抱へなば、我片腕ともなるべし」と主膳は手づるを求め平内を招きしが、粂は早速罷りせし、青山大いに喜び先ず酒食を取り出(いだ)し厚く饗応してのち、わが役儀に随身ならんとことをすゝめしが、粂は一儀にもおよばず青山に身を寄せ、然(しか)してのち、罪人首切りを願いしかば、主膳は喜びなゝめならず、斯くなることをのぞまるゝは誠に武士の本意なりと、平内をそんきょうして、是より科人首切り役を云つけゝる。
傳へきく、すいきょう人山田浅右衛門は、一代に千人つかを一本建しときゝしかども、粂の平内は一代にして二本迄たてしと聞く。蓋しこの千人塚とは、罪人の首千人切る時は一本をたてるが例なり。
されば罪人己が科ありて首切らるゝに、なんぞや太刀(たち)とりを恨むる筈はなけれども、多くは最期の一念その切り手を恨むや平内亡死(ぼっし)てのち伜が枕べに顕れ「我れ此の世にありし時多くの罪人を手に懸け、その報いにや未来の苦患(くげん)、のがるゝ隙なく、願うは此の身の姿を刻み人立ち多き所へ捨て置き風雨にさらし数多(あまた)の人が土足に懸けて踏み付けなば罪障生滅(ざいしょうしょうめつ)うたがいなし」と夢見ることの両三夜(りょうさんや)、粂が伜は大いに歎き「さては父上この世にて罪有るものとはいゝながら、多くの人を手に懸けし其の罪科(とが)のおそろしく、いまだにうかみたまわずや」と、はふり落(おつ)る涙をはらい、父が夢中(むちゅう)に知らせし通り石にて平内が姿をきざませ、往来茂き所といえば浅草雷神門まえへうち捨て罪障生滅の為、風雨にさらし人びとに土足にかけて踏み付けよと道路へまろましありけるを、いつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)い、男女(なんにょ)に限らず縁遠きは文(ふみ)をつけて願い事なせし、風雨にさへもさらされずいつの世にか一宇を建て浅草寺(あさくさでら)の境内にて、いまは一社の末社(まっしゃ)となり参詣茂くありけるは、こは則ち大慈悲の救いによりて平内も往生得脱(おうじょうとくだつ)為す-----
単純翻刻
○引渡せば----されは又そのころ
粂平内(くめのへいない)といふものあり元来強気(けんらいごうき)にして
剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞(きこ)へ高ければ
青山一人おもへらく我盗賊掛(わがとうぞくかゝり)にて召捕(めしとる)[こ]とを□
□旨(むね)と
せば
斯(かく)なる者
を抱へ
なは我
片腕と
もなるべしと⦿
⦿主膳は
手づるを求め△
△平内を招きしが粂は早
速罷りせし
青山大ひに
喜び先(まづ)酒食
を取出(とりいだ)し厚く饗
応してのちわが
役儀に随
身[な]らん
ことを[ことを]すゝめしが
粂は一儀にも
およばつ青山に身を寄
然(しか)してのち罪人首切り
を願ひしかは
主膳は
喜び■
■なゝめ
ならづ
斯(かく)なること
をのそまる
るは
08
誠に武士の
本意なりと平内を
そんきやうして是より
科人首切役を云(いゝ)
つけける傳へきく[吹挙](すいきやう)
人山田浅右衛門は一代に千人つがを
一本建しときゝしか
ども粂の平内は
一代にして二本迄
たてしと聞蓋し
この千人塚とは罪人の
首千人切時は一本をたてる
が例なりされば罪人己科(ざいにんをのれとが)ありて
首切(くびきら)るゝになんぞや太刀(たち)とりを恨むる
筈はなけれども多(を[ふ])くは最期の一念その
切手を恨むや平内亡死(ほつし)てのち伜が枕べに
顕れ我此世にありし時多くの罪人を
手に懸けその報ひにや未来の
苦患(くげん)のがるゝ隙なく願ふは此
身の姿を刻人立をふき
所へ捨置(すてをき)風雨にさらし数多(あまた)
の人が土足に懸けて踏付(ふみつけ)なば罪
障生滅(ざいしやうしやうめつ)うたがひなしと夢見ることの両三夜(りうさんや)○
○粂が伜は
大ひに歎きさては
父上この世
にて罪有(つみある)
ものとはいゝ
ながら多([をふ])くの人を
手に懸け
し其罪
科のを
そろしく
いまだ
にうかみ
たまわづ
やと
は
ふり
落(をつ)る涙(なみ)だ
を
09
はらい父が夢中(むちう)に知らせし通り
石にて平内が姿をきざませ往来
茂き所といへば浅草雷神門まへ
へうち捨罪障生滅の為風雨に
さらし人びとに土足にかけて踏
付よと道路へまろましあり
けるをいつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)ひ
男女(なんによ)に限らず縁遠きは文(ふみ)を
つけて願事なせし風雨に
さへもさらされづいつの世にか
一宇を建(たて)浅草寺(あさくさでら)の境内
にていまは一社の末社(まつしや)となり参詣(さんけい)
茂くありけるはこは則ち大慈悲の
救ひによりて平内も往生得脱為(をうせうとくだつなす)
時ならん------
10
8-10
国立国会図書館デジタルコレクション
編輯兼出版人 羽田冨次郎 明治十六年五月二十一日御届 (1883)
上之巻 (久米平内)
----されば又そのころ粂平内(くめのへいない)というものあり、元来強気(けんらいごうき)にして、剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞え高ければ、青山一人おもへらく「我が盗賊掛りにて召し捕ることを旨(むね)とせば、斯くなる者を抱へなば、我片腕ともなるべし」と主膳は手づるを求め平内を招きしが、粂は早速罷りせし、青山大いに喜び先ず酒食を取り出(いだ)し厚く饗応してのち、わが役儀に随身ならんとことをすゝめしが、粂は一儀にもおよばず青山に身を寄せ、然(しか)してのち、罪人首切りを願いしかば、主膳は喜びなゝめならず、斯くなることをのぞまるゝは誠に武士の本意なりと、平内をそんきょうして、是より科人首切り役を云つけゝる。
傳へきく、すいきょう人山田浅右衛門は、一代に千人つかを一本建しときゝしかども、粂の平内は一代にして二本迄たてしと聞く。蓋しこの千人塚とは、罪人の首千人切る時は一本をたてるが例なり。
されば罪人己が科ありて首切らるゝに、なんぞや太刀(たち)とりを恨むる筈はなけれども、多くは最期の一念その切り手を恨むや平内亡死(ぼっし)てのち伜が枕べに顕れ「我れ此の世にありし時多くの罪人を手に懸け、その報いにや未来の苦患(くげん)、のがるゝ隙なく、願うは此の身の姿を刻み人立ち多き所へ捨て置き風雨にさらし数多(あまた)の人が土足に懸けて踏み付けなば罪障生滅(ざいしょうしょうめつ)うたがいなし」と夢見ることの両三夜(りょうさんや)、粂が伜は大いに歎き「さては父上この世にて罪有るものとはいゝながら、多くの人を手に懸けし其の罪科(とが)のおそろしく、いまだにうかみたまわずや」と、はふり落(おつ)る涙をはらい、父が夢中(むちゅう)に知らせし通り石にて平内が姿をきざませ、往来茂き所といえば浅草雷神門まえへうち捨て罪障生滅の為、風雨にさらし人びとに土足にかけて踏み付けよと道路へまろましありけるを、いつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)い、男女(なんにょ)に限らず縁遠きは文(ふみ)をつけて願い事なせし、風雨にさへもさらされずいつの世にか一宇を建て浅草寺(あさくさでら)の境内にて、いまは一社の末社(まっしゃ)となり参詣茂くありけるは、こは則ち大慈悲の救いによりて平内も往生得脱(おうじょうとくだつ)為す-----
単純翻刻
○引渡せば----されは又そのころ
粂平内(くめのへいない)といふものあり元来強気(けんらいごうき)にして
剣術捕手(とりて)の名人と世上に聞(きこ)へ高ければ
青山一人おもへらく我盗賊掛(わがとうぞくかゝり)にて召捕(めしとる)[こ]とを□
□旨(むね)と
せば
斯(かく)なる者
を抱へ
なは我
片腕と
もなるべしと⦿
⦿主膳は
手づるを求め△
△平内を招きしが粂は早
速罷りせし
青山大ひに
喜び先(まづ)酒食
を取出(とりいだ)し厚く饗
応してのちわが
役儀に随
身[な]らん
ことを[ことを]すゝめしが
粂は一儀にも
およばつ青山に身を寄
然(しか)してのち罪人首切り
を願ひしかは
主膳は
喜び■
■なゝめ
ならづ
斯(かく)なること
をのそまる
るは
08
誠に武士の
本意なりと平内を
そんきやうして是より
科人首切役を云(いゝ)
つけける傳へきく[吹挙](すいきやう)
人山田浅右衛門は一代に千人つがを
一本建しときゝしか
ども粂の平内は
一代にして二本迄
たてしと聞蓋し
この千人塚とは罪人の
首千人切時は一本をたてる
が例なりされば罪人己科(ざいにんをのれとが)ありて
首切(くびきら)るゝになんぞや太刀(たち)とりを恨むる
筈はなけれども多(を[ふ])くは最期の一念その
切手を恨むや平内亡死(ほつし)てのち伜が枕べに
顕れ我此世にありし時多くの罪人を
手に懸けその報ひにや未来の
苦患(くげん)のがるゝ隙なく願ふは此
身の姿を刻人立をふき
所へ捨置(すてをき)風雨にさらし数多(あまた)
の人が土足に懸けて踏付(ふみつけ)なば罪
障生滅(ざいしやうしやうめつ)うたがひなしと夢見ることの両三夜(りうさんや)○
○粂が伜は
大ひに歎きさては
父上この世
にて罪有(つみある)
ものとはいゝ
ながら多([をふ])くの人を
手に懸け
し其罪
科のを
そろしく
いまだ
にうかみ
たまわづ
やと
は
ふり
落(をつ)る涙(なみ)だ
を
09
はらい父が夢中(むちう)に知らせし通り
石にて平内が姿をきざませ往来
茂き所といへば浅草雷神門まへ
へうち捨罪障生滅の為風雨に
さらし人びとに土足にかけて踏
付よと道路へまろましあり
けるをいつしか世人(せじん)の聞違(きゝちが)ひ
男女(なんによ)に限らず縁遠きは文(ふみ)を
つけて願事なせし風雨に
さへもさらされづいつの世にか
一宇を建(たて)浅草寺(あさくさでら)の境内
にていまは一社の末社(まつしや)となり参詣(さんけい)
茂くありけるはこは則ち大慈悲の
救ひによりて平内も往生得脱為(をうせうとくだつなす)
時ならん------
10
8-10
国立国会図書館デジタルコレクション
2017年8月19日土曜日
捕物の話 火付盗賊改 首斬朝右衛門
捕物の話 三田村鳶魚 著
早稲田大学出版部 昭和9年 (中公文庫 1996)
火付盗賊改 首斬朝右衛門
火方盗賊改が新任されますと、その祝に松右衛門、善七が押かけて来る。さういふことは他の御役には無いことです。その来た時の様子が、津村淙庵(つむらそうあん)の『譚海(たんかい)』に書いてありますから、それを出し置きませう。
いろ/\役向や扱に就て変つたこともありますが、その中でも非人頭が挨拶に来るといふことは珍しいと思ひます。そればかりではない、新任の披露状を首斬朝右衛門のところへ遣る。これは山田朝右衛門殿、誰組誰といふので、組下の与力両人の名前で、披露状を出す。かういふことも外の役には無いやうです。この文段も全文出し置きます。
それから死罪の者がありました時、同心を使にして、火方盗賊改の役所から朝右衛門の出役を求めます。その手紙も珍しいものと思ひますから、文例を出して置きます。
首斬朝右衛門といふと、誰でも知つて居(を)りますが、あれは町奉行の役人でもなければ、牢屋の役人でもなし、火方盗賊改の役人でもない。幕府の役人では無論ありません。誰の禄を貰つてゐる人間でもないのです。一体死罪、斬罪等の者の首を討ちますのは、町奉行の方とすると、一番年の若い同心の役になつてゐるのですが、火方盗賊改に致しても、やはり同心の役になつて居(を)ります。この浪人山田朝右衛門は、いつからさういふ慣例になつてゐるかわかりませんけれど、首斬役の同心と相対(あひたい)で代役をする。その時は検使として御徒目付、与力、同心等が牢屋の役人と共に立合ふのですが、皆慣例を承知して居りますから、別に何とも云ふ者も無い。それから面白いことは、当役の同心が実際に首を討ちますと、刀の研代(とぎだい)として二分づつ下されがある。それを朝右衛門に譲つて首を討たせますと、二分は自分のものになるのみならず、朝右衛門は諸家から刀を試して貰ひたいと云つて頼まれて居りますので、その方から礼を貰つてゐる。だから役を譲つた同心の方へは、朝右衛門から礼金が来る。さういふわけで自然役を譲るやうになつてしまつたのです。
牢屋の中で首を討つのは、獄門になるのもやはり牢内で斬るのですが、斬罪と申ますのは刑場へ引出(ひきだ)して斬る。死罪は牢屋の中で首を斬るのです。その外に下手人と云つて、死罪になる者がありますが、此等は皆首を刎ねる。そううち様物(ためしもの)と云ひますと、これにもいろ/\作法がありますが、二ツ胴、四ツ胴などと云つて、死骸を重ねて斬る。さうして刃物を試すことになるのです。普通様物(ためしもの)と云ひますと、獄門は勿論、斬罪、下手人は様物(ためしもの)にしない。死罪になるものだけを様物にする。本来刀剣の試しを致すのでありますから、様物にしていいと法律に規定してある罪人だけを、朝が斬る筈なのですが、他の死刑になる罪人をも扱つたらしい。厳密に云へば様物(ためしもの)になるものだけでなければならぬわけなのです。
麹町平河町(かうぢまちひらかはちやう)の朝右衛門の宅では、金二分づつ出すと、労症(らうしやう)の薬といふものをくれる。それには人胆(じんたん)が入れてあると云はれて居りました。果して人胆が入つてゐるかどうか、わかりはしないのですが、江戸時代にはさう云つて騒立てたものなのです。朝右衛門の宅では、今日は幾人死刑になる者があるといふと、その数だけの燈明を上げて出役する。一つの首を討つとその燈明が一つ消える。二つ討てば燈明が二つ消える。つけて行つただけの燈明が皆消えると、もう御役が済んだ、と家(うち)の者が云つたといふ、怪談じみた話も伝はつて居ります。
この朝右衛門が何時から首斬役になつたかと申しますと、深川霊巌寺の境内にある成等院(じやうどうゐん)、これは紀伊国屋文左衛門の墓があるので知られてゐる寺ですが、そこに罪人を千人斬つたから、供養の為に建てたといふ、六字名號(ろくじみやうがう)を三方に彫つた六尺有余の石塔があつたさうです。これは只今もあるかどうか存じませんが、承応二年九月一日(じつ)と書いてあつたといふことです。承応二年までに千人も斬つたといふことになりますと、朝右衛門の首斬も新しいことでないやうですが、これは直ぐ丸呑にするわけにも行かないかと思ふ。といふのは、朝右衛門には前任者があつたといふことだからであります。
小石川の砂利場に文政頃まで御留守居与力を勤めてゐた鵜飼十郎左衛門といふ人があります。場末のことでありますから、あまり人の目にもついてゐなかつたのでせうが、この鵜飼の家の茅葺の長屋門といふものは---二百石貰つてゐるのですから、さうえらいものではないんだけれども、その門桁に大きさ一尺ばかりの定紋(ぢやうもん)が嵌込んである。丸い形で木へ彫つたのですが、丸の中に一といふ字を書いた紋が嵌込んであつた。一体門に定紋をつけるのは、大名衆のことでありまして、大名以外の事としては、医者の半井大和守(なからゐやまとのかみ)、これは幕府の典薬頭(てんやくのかみ)だつた人で、この家以外には殆ど無いことでありますのに、鵜飼の家は定紋をつけてゐた。どうしてさういふ格外なことがしてあるかと申しますと、この鵜飼の先代は、若い時には新助と云つた人で、浅草の知樂院(ちらゐん)の中存(ちうぞん)の甥に当る人なのです。これが浅草に居りましたが、恐しい喧嘩早い、無法者で、度度斬つ斬られつの大喧嘩っをやり、当時名高い男だつた。それが後に幕府の御火(おひ)の番に召出されたのです。この鵜飼は山野邊吉左衛門の弟子で、据物斬(すゑものぎり)の名人でありましたから、人、渾名して『据物斬の十郎左衛門』と云つたといふ位である。それは将軍家の御道具御様(おためし)の事を書いたものゝ中に、元禄六年三月二十五日から六月二十七までに、二十六口(ふり)の御用をつとめて、胴試を仰付けられた、といふことが書いてある。無論これだけでは無かつたのでせうが、たま/\残つてゐる御書付にかういふものがあるのです、鵜飼は身長六尺二寸、力量は巣鴨第一と云はれ、やがて二の丸添番(そへばん)に進みましたが、様物(ためしもの)の御用は公儀からだけではなく、頼まれては閣老の下屋敷へ往(い)つて手腕を奮つたさうです、諸大名からも続々依頼がありました、胴を様(ため)すために牢屋から死罪の屍(かばね)を運んで来る、鵜飼は牢屋へ出張(でば)つては様(ため)さずに、屍を自宅へ持つて来させたのです、そこから考へますと首斬同心の代役を買つて出さうもありません、大分威張つたところもあり、おのづから見識も備はつてをります、山田朝右衛門は浪人でありますし、様物にも牢屋へ往き、段々馴合つて胴を様(ため)すのみならず、首の骨も様すやうになつたのでありませう、鵜飼は牢屋から死骸を運ばせたのですから、それが往々門違(かどちが)ひをして隣家を迷惑させたことが屡あつたさうです、是は他の物と違つて、門違ひをされては大変、物が物だけに持ち込まれた家では困るに相違ない、そこで門の桁へ定紋を付ける、当時の鵜飼は百俵五人扶持の分限だつたのですけれども、全く別段の沙汰を受けるやうになつたのでございます。鵜飼は元禄十三年に六十歳で隠居いたしまして、翌年傳通院の祐天和尚について剃髪いたし、名號と袈裟を授りまして、法名を文哲(もんてつ)と申した、今日では所在が知れませんが、その時喧嘩やら辻切やら、壮年から人を斬つた其の数(すう)も千五百人、供養塔を巣鴨火之番町(すがもひのばんまち)の自宅の奥と傳通院開山堂の西後に建てたと申します、この鵜飼が山田の前任者だといふ伝へがある。さうしてこの鵜飼なる者は元禄十三年に隠居したといふのですから、後任者の山田が承応年間に御用を勤めたといふ話は、をかしいやうな気もしますが、何もしつかりしたものが残つてゐないので、どうとも決着することが出来ません。
国立国会図書館デジタルコレクション
早稲田大学出版部 昭和9年 (中公文庫 1996)
火付盗賊改 首斬朝右衛門
火方盗賊改が新任されますと、その祝に松右衛門、善七が押かけて来る。さういふことは他の御役には無いことです。その来た時の様子が、津村淙庵(つむらそうあん)の『譚海(たんかい)』に書いてありますから、それを出し置きませう。
江戸にて火事御役(十人火消)加役(火方盗賊改)など仰付らるゝ時は、境町葺屋町(さかひちやうふきやちやう)等の三芝居の座本太夫祝儀にまいる例也、庭にすぢを割して堺をたて置、品川浅草の乞児(こじき)の長、松右衛門善七たちつけ羽織にて、玄関の左右の土間に坐し、式台に手をかけながら、此度は結構なる御役儀蒙らせられ、恐悦に存し奉るよしをのぶる、用人玄関に坐して礼をうくる、扨(さて)詞儀畢(じぎをはり)て、三芝居の者共御祝儀に参上致候よしを相述(あひのべ)、松右衛門善七左右にわかれ、向ひ坐する時、勘三郎(かんざぶらう)羽左衛門(うざゑもん)勘彌(かんや)等麻上下(あさかみしも)にて、門のくゝりより入(いり)、土間の堺をたて置たる所に座し、同様に祝詞を述、退出する事なり。
いろ/\役向や扱に就て変つたこともありますが、その中でも非人頭が挨拶に来るといふことは珍しいと思ひます。そればかりではない、新任の披露状を首斬朝右衛門のところへ遣る。これは山田朝右衛門殿、誰組誰といふので、組下の与力両人の名前で、披露状を出す。かういふことも外の役には無いやうです。この文段も全文出し置きます。
以手紙致啓上候、然者此度誰々跡御役火付盗賊改被仰付候間可被得其意候、右之趣申入候様、頭申付候間如此御坐候。
(手紙を以て啓上致し候、然れ者(ば)此度誰/\跡御役火付盗賊改仰せ付け被(ら)れ候間其の意を得被(ら)る可(べ)く候、右之趣(おもむき)申し入れ候様、頭(かしら)申し付け候間此(かく)の如くに御坐候。)
それから死罪の者がありました時、同心を使にして、火方盗賊改の役所から朝右衛門の出役を求めます。その手紙も珍しいものと思ひますから、文例を出して置きます。
明幾日、牢屋敷何時揃二而(て)、死罪之者何人御仕置申付候間、例之通(れいのとほり)御出役(ごしゆつやく)可有之候(これあるべくさふらふ)。以上。
月 日
首斬朝右衛門といふと、誰でも知つて居(を)りますが、あれは町奉行の役人でもなければ、牢屋の役人でもなし、火方盗賊改の役人でもない。幕府の役人では無論ありません。誰の禄を貰つてゐる人間でもないのです。一体死罪、斬罪等の者の首を討ちますのは、町奉行の方とすると、一番年の若い同心の役になつてゐるのですが、火方盗賊改に致しても、やはり同心の役になつて居(を)ります。この浪人山田朝右衛門は、いつからさういふ慣例になつてゐるかわかりませんけれど、首斬役の同心と相対(あひたい)で代役をする。その時は検使として御徒目付、与力、同心等が牢屋の役人と共に立合ふのですが、皆慣例を承知して居りますから、別に何とも云ふ者も無い。それから面白いことは、当役の同心が実際に首を討ちますと、刀の研代(とぎだい)として二分づつ下されがある。それを朝右衛門に譲つて首を討たせますと、二分は自分のものになるのみならず、朝右衛門は諸家から刀を試して貰ひたいと云つて頼まれて居りますので、その方から礼を貰つてゐる。だから役を譲つた同心の方へは、朝右衛門から礼金が来る。さういふわけで自然役を譲るやうになつてしまつたのです。
牢屋の中で首を討つのは、獄門になるのもやはり牢内で斬るのですが、斬罪と申ますのは刑場へ引出(ひきだ)して斬る。死罪は牢屋の中で首を斬るのです。その外に下手人と云つて、死罪になる者がありますが、此等は皆首を刎ねる。そううち様物(ためしもの)と云ひますと、これにもいろ/\作法がありますが、二ツ胴、四ツ胴などと云つて、死骸を重ねて斬る。さうして刃物を試すことになるのです。普通様物(ためしもの)と云ひますと、獄門は勿論、斬罪、下手人は様物(ためしもの)にしない。死罪になるものだけを様物にする。本来刀剣の試しを致すのでありますから、様物にしていいと法律に規定してある罪人だけを、朝が斬る筈なのですが、他の死刑になる罪人をも扱つたらしい。厳密に云へば様物(ためしもの)になるものだけでなければならぬわけなのです。
麹町平河町(かうぢまちひらかはちやう)の朝右衛門の宅では、金二分づつ出すと、労症(らうしやう)の薬といふものをくれる。それには人胆(じんたん)が入れてあると云はれて居りました。果して人胆が入つてゐるかどうか、わかりはしないのですが、江戸時代にはさう云つて騒立てたものなのです。朝右衛門の宅では、今日は幾人死刑になる者があるといふと、その数だけの燈明を上げて出役する。一つの首を討つとその燈明が一つ消える。二つ討てば燈明が二つ消える。つけて行つただけの燈明が皆消えると、もう御役が済んだ、と家(うち)の者が云つたといふ、怪談じみた話も伝はつて居ります。
この朝右衛門が何時から首斬役になつたかと申しますと、深川霊巌寺の境内にある成等院(じやうどうゐん)、これは紀伊国屋文左衛門の墓があるので知られてゐる寺ですが、そこに罪人を千人斬つたから、供養の為に建てたといふ、六字名號(ろくじみやうがう)を三方に彫つた六尺有余の石塔があつたさうです。これは只今もあるかどうか存じませんが、承応二年九月一日(じつ)と書いてあつたといふことです。承応二年までに千人も斬つたといふことになりますと、朝右衛門の首斬も新しいことでないやうですが、これは直ぐ丸呑にするわけにも行かないかと思ふ。といふのは、朝右衛門には前任者があつたといふことだからであります。
小石川の砂利場に文政頃まで御留守居与力を勤めてゐた鵜飼十郎左衛門といふ人があります。場末のことでありますから、あまり人の目にもついてゐなかつたのでせうが、この鵜飼の家の茅葺の長屋門といふものは---二百石貰つてゐるのですから、さうえらいものではないんだけれども、その門桁に大きさ一尺ばかりの定紋(ぢやうもん)が嵌込んである。丸い形で木へ彫つたのですが、丸の中に一といふ字を書いた紋が嵌込んであつた。一体門に定紋をつけるのは、大名衆のことでありまして、大名以外の事としては、医者の半井大和守(なからゐやまとのかみ)、これは幕府の典薬頭(てんやくのかみ)だつた人で、この家以外には殆ど無いことでありますのに、鵜飼の家は定紋をつけてゐた。どうしてさういふ格外なことがしてあるかと申しますと、この鵜飼の先代は、若い時には新助と云つた人で、浅草の知樂院(ちらゐん)の中存(ちうぞん)の甥に当る人なのです。これが浅草に居りましたが、恐しい喧嘩早い、無法者で、度度斬つ斬られつの大喧嘩っをやり、当時名高い男だつた。それが後に幕府の御火(おひ)の番に召出されたのです。この鵜飼は山野邊吉左衛門の弟子で、据物斬(すゑものぎり)の名人でありましたから、人、渾名して『据物斬の十郎左衛門』と云つたといふ位である。それは将軍家の御道具御様(おためし)の事を書いたものゝ中に、元禄六年三月二十五日から六月二十七までに、二十六口(ふり)の御用をつとめて、胴試を仰付けられた、といふことが書いてある。無論これだけでは無かつたのでせうが、たま/\残つてゐる御書付にかういふものがあるのです、鵜飼は身長六尺二寸、力量は巣鴨第一と云はれ、やがて二の丸添番(そへばん)に進みましたが、様物(ためしもの)の御用は公儀からだけではなく、頼まれては閣老の下屋敷へ往(い)つて手腕を奮つたさうです、諸大名からも続々依頼がありました、胴を様(ため)すために牢屋から死罪の屍(かばね)を運んで来る、鵜飼は牢屋へ出張(でば)つては様(ため)さずに、屍を自宅へ持つて来させたのです、そこから考へますと首斬同心の代役を買つて出さうもありません、大分威張つたところもあり、おのづから見識も備はつてをります、山田朝右衛門は浪人でありますし、様物にも牢屋へ往き、段々馴合つて胴を様(ため)すのみならず、首の骨も様すやうになつたのでありませう、鵜飼は牢屋から死骸を運ばせたのですから、それが往々門違(かどちが)ひをして隣家を迷惑させたことが屡あつたさうです、是は他の物と違つて、門違ひをされては大変、物が物だけに持ち込まれた家では困るに相違ない、そこで門の桁へ定紋を付ける、当時の鵜飼は百俵五人扶持の分限だつたのですけれども、全く別段の沙汰を受けるやうになつたのでございます。鵜飼は元禄十三年に六十歳で隠居いたしまして、翌年傳通院の祐天和尚について剃髪いたし、名號と袈裟を授りまして、法名を文哲(もんてつ)と申した、今日では所在が知れませんが、その時喧嘩やら辻切やら、壮年から人を斬つた其の数(すう)も千五百人、供養塔を巣鴨火之番町(すがもひのばんまち)の自宅の奥と傳通院開山堂の西後に建てたと申します、この鵜飼が山田の前任者だといふ伝へがある。さうしてこの鵜飼なる者は元禄十三年に隠居したといふのですから、後任者の山田が承応年間に御用を勤めたといふ話は、をかしいやうな気もしますが、何もしつかりしたものが残つてゐないので、どうとも決着することが出来ません。
国立国会図書館デジタルコレクション
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